カテゴリー別アーカイブ: 官僚論

行政-官僚論

NHK時論公論に取り上げられました

9月26日深夜の「時論公論」「どうなる「キャリア官僚」 国家公務員は確保できるか」。10分番組の8分頃に、私の顔と意見が出ています。
成澤良・解説委員の「国家公務員の志望者が減少傾向にあり、人事院は、国家公務員の人事管理の抜本的な見直しに向けて有識者会議を立ち上げました。現状や課題を解説します。」

再放送は、27日14:35からです。NHKの見逃し配信でも見ることができます。ウエッブでも概要を見ることができます。

取材ではいろいろ説明したのですが、「行き過ぎた官邸主導が官僚のやりがいを失わせた」の部分だけが取り上げられました。
私は官邸主導は良いことだと考えています。しかし現状では、総理が扱う政策、大臣が扱う政策、官僚が扱う政策の分類がうまくいっておらず、「なんでも官邸に集約する」ことが、指示待ち人間を生んでいると考えています。

惰眠官僚

9月16日の朝日新聞投書欄に、昭和20年9月25日の投書「惰眠官僚」が載っていました。恥ずかしいです。

◇商工省の庁舎が連合軍兵舎に提供され立退かねばならなかつた時のこと。「手が足りぬから是非」との商工省某燃料関係課よりの要請に応じ、某会社の社員たる吾々(われわれ)も応援を買つて出た。役所に出て当の官庁側の出席者が余りに少いのに一驚を喫した。少数の下級課員とともに、五階の旧事務室から一丁程離れた新庁舎の二階迄(まで)テーブルや書類を人力のみで上げ下げせねばならなかつた。

◇その際割り切れぬ感情があつた。当の責任者たる課長の態度である。彼は自分の道具、棚等を部下や応援者に運搬させて置きながら、回転椅子に座り込み、昼食後は恥かし気もなく昼寝を始めたのである。我々の目の前で靴のまゝの両足をテーブルの上に投げ出し作業の終るまで眠り続けてゐた。

◇この象徴的事実が戦後の我国を暗示するものでなければ幸である。新日本の黎明(れいめい)とともに此種(このしゅ)の一部官僚が惰眠より覚醒せん事を切望して止(や)まない。(一国民寄)

政治の行方 地盤沈下の中央省庁

7月13日の日経新聞「「安倍後」政治の行方⑤ 地盤沈下の中央省庁」「霞が関のボトムアップ遠く 政策立案「コンサルに外注」から。

・・・官邸と中央省庁との関係は安倍政権下で変質した。「政治主導」を掲げた安倍氏が2014年に内閣人事局を発足させ、官僚の人事権にも深く関与するようになった。
同時に首相官邸が政策の司令塔となり、切り盛りをした経産省出身の今井尚哉秘書官らは「官邸官僚」と呼ばれた。官邸への行きすぎた「忖度」が生まれやすい環境となり、森友・加計学園問題などでは政と官の距離に批判が集まった。
当時、こうした問題は「政治主導」に起因する安倍政権特有の現象との見方が多かった。
発足時に「ボトムアップ」をうたった岸田政権で確かに人事権への関与は一部にとどまるようになったものの、官邸に抜てきされた一部の官僚が政策を動かす構図は変わっていない。
東大の牧原出教授は霞が関について「各省の官僚が政策を打ち出す流れになっていない」と指摘する。「かつて各省の官僚は政権の動向をみながら政策の弾込めをしていた。現在はそもそも政策立案に抑制的になっているのではないか」と分析する・・・

・・・ある政府高官はこんな内情を明かす。「主要官庁が政策立案をコンサル企業に依頼するようになってきた。かつては比較的単純な作業だったが今では重要政策も含まれる」
人材はかつてのようには集まらない。政策を動かすモチベーションも湧かない。そこへ国会対応などを中心とした膨大な作業がのしかかる。「日本最大のシンクタンク」といわれる霞が関が政策立案を外部委託するのは、行政機関が機能不全に陥ったに等しい。

衆院選が小選挙区制になってから四半世紀、中央省庁の再編からは20年が経過した。官僚主導から政治主導への転換を進めるにつれて中央省庁は地盤沈下していった。
「ボトムアップ」の掛け声だけでなく、公務員の働き方改革や国会改革なども含めた対応をとらなければ日本の活力を取り戻すような政策は出てこない・・・

公務員は非営利団体に負けていないか

連載「公共を創る」第148回」(新しい課題と手法について、行政が対応に遅れ、非営利団体が先に取り組んでいます。彼らの感度の良さと熱意に、公務員は負けていないでしょうか)を読んだ官僚の一人から、次のような反応がありました。一部改変して紹介します。
確かに、この指摘の面もありますね。行政改革や歳出削減で、公務員に時間と予算の余裕がないことは連載第141回で指摘しました。

・・・NPOに負けていないか、という点は、残念ながらそのとおりだと感じました。
感度の良さ(悪さ)と熱意の高さ(低さ)の背景には、ご指摘のとおり、個々の公務員の余裕度(新たな仕事をこなす余地)に加え、公務員が自らの裁量で処分できるリソース(人員・資金)がほとんどない、という点があるのではないかと思います。

世の中に「やった方がいいこと」は満ちあふれていますが、「行政がやらねばならぬこと」に引き上げるには、高いハードルがあります。行政の公平性もその一つだと思っており、同じニーズを持つ人々のうち一部だけでもなんとかしてあげる、という発想は、NPOにはできても行政にはなかなか難しいように思います。
施策の継続性・一貫性も同様で、財源が足りなくなったからやめます、ということが難しい行政では、そもそも問題に手を付けること自体、慎重になりがちです。

個々の公務員の「やる気」「熱意」の問題のように捉えられがちですが、どの程度のリソースをどういう課題の解決に振り向けるのか、最終的にはそのリソースを税で負担してもらう(あるいは既存のサービスの廃止という形で負担してもらう)ことについての判断を誰がどのように行い、そのための住民・国民の理解をどのように得ていくのか、というところが課題なのかなあと感じました・・・

『中央公論』5月号「官僚の没落」

月刊『中央公論』5月号が、「官僚の没落 エリートはどこへ消えた」を特集しています。
・牧原出教授の「安倍元首相退陣後も漂い続ける「首相の意向」 官邸官僚が生み出した「無責任体制」」
・嶋田博子教授の「米英独仏との比較から浮かび上がるもの 家臣型・無定量・人事一任の日本型は持続可能か」
・「データで見るエリート学生の進路事情」
など、現在の官僚の置かれた位置が、簡潔に説明されています。

大石学教授と北村亘教授の対談「江戸の役人、令和の官吏」も興味深いです。吉宗時代の統治機構改革によって、江戸幕府の能力主義的な人事管理と公文書管理ができあがったのだそうです。