カテゴリーアーカイブ:社会の見方

公文書館の将来

2018年5月4日   岡本全勝

公文書館に行って、考えました。多くの人は、公文書や文書と聞くと、紙の書類を思い浮かべるでしょう。ハンムラビ法典やロゼッタストーンのように、石に刻まれた文書もありますが。

公文書の電子化が進んでいます。まずは、紙の文書を電子化しています。次に来るのは、文書そのものが、電子媒体でつくられる時代です。すると、紙はありません。
利用者が「公文書館に行って、お目当ての書類を申請して、書類を出してもらう」という風景はなくなり、自宅でパソコンで検索し、お目当ての書類をダウンロードすることになるのでしょう。
公文書館も、古い書類が棚に並んでいるという風景でなく、コンピュータが静かに動いている風景になるのでしょうね。

『文化史とは何か』

2018年4月29日   岡本全勝

ピーター・バーク著『文化史とは何か』(邦訳改訂版2010年、法政大学出版局)を読み終えました。先日紹介した、長谷川貴彦著『現代歴史学への展望』に触発されてです。
欧米の歴史学(すなわち、ほぼ世界の歴史学の主流)、特に文化史が、どのように変化してきたかが、よくわかりました。
バークは、次のように、その変遷を整理します。
古典的文化史(ブルクハルトやホイジンガ)、社会学(ヴェーバー)から美術史(象徴やゴシック建築研究)へ、社会と文化への関心、民衆の発見。

エリート(芸術)文化研究から出発した文化史が、社会学を踏まえ、民衆を含めた文化史(時代史)へと変化したと、私は理解しました。
そのような視点からの、日本史、日本社会史、精神史、文化史は、書かれないでしょうか。イギリス社会史は、いくつか邦訳があります。

加藤秀俊著『社会学』

2018年4月28日   岡本全勝

加藤秀俊先生が『社会学 わたしと世間』(2018年、中公新書)を出されました。先生は1930年のお生まれ。88歳になられるのですね。この本は、先生の社会学の集大成、そのエッセンスでしょう。  表題の「わたし」には、普通名詞の「私」と、加藤先生の「私」の、二つの意味があるようです。

「社会を世間と言い換えれば、よくわかる。社会学とは世間を対象とした学問、世間話の延長である」と主張されます。しかし、学問としては、それは都合が悪いのでしょうね。専門用語で、素人がわからない話をしないと、ありがたみが薄れるのです。そして、欧米から輸入したという権威付けも。多くの学問はそれで良いのでしょうが。私たちが生きて行くには、社会学・世間学を知っている方が、苦労をしません。そこが、ほかの学問との違いです。すると、平易な言葉で書かれている方がよいのです。

私は学生時代、授業の社会学が、今ひとつ理解できませんでした。清水幾太郎さんの本で、社会学とはこんなものかと理解しました。そして、加藤秀俊先生の本を読んで、社会とはこんなものだと理解しました。また、京都大学人文研究所の先生方の本を読みました。これらは、すごくわかりやすかったです。
大学の先生の本=西欧の輸入に対し、これらの本は、日本社会を日本語で分析していたのです。だから、加藤先生や人文研の本を「社会学」とは思わなかったのです。加藤先生が書かれているように、難しい専門用語で(西欧の社会を)語ることが、大学の社会学だったのです。
その傾向は、未だに続いているようです。「思想」というと、ソクラテスから現代フランス哲学まで、西欧の思想が解説されています。日本人、それも庶民の思想は出てきません。困ったものです。ここは、歴史学において、政治史や経済史から、庶民を含めた社会史や文化史に転換したことが思い浮かびます。エリートたちの思想とともに、庶民の思想を含めて、国民の思想と言うべきでしょう。これについては、別途書こうと思っています。

この本は入門書ですが、社会学の基本が整理されています。集団、コミュニケーション、組織、行動、自我、方法です。それぞれが、私たちの日常生活、現代の生活に即して解説されています。わかりやすいし面白いです。このうち、コミュニケーションだけがカタカナです。何かよい大和言葉はないのでしょうか。

ところで、加藤先生の本になじみのない人は、先生の文章に違和感を感じるところがあるでしょう。形容詞がひらがななのです。

まだ外国人には不親切な日本

2018年4月28日   岡本全勝

先日の夜のことです。地下鉄新宿3丁目駅で乗り換えた時、プラットフォームでまごついている白人女性2人がいました。英語で声をかけると、柱に表示された丸ノ内線の駅の一覧を示しながら、「中野新橋駅に行く方法がわからない」とのこと。

中野新橋駅は、丸ノ内線の支線にある駅です。ほとんどの列車は、本線の荻窪駅行きなので、途中の中野坂上駅で乗り換えます。
確かに、案内表示を見ても、直ちには理解できません。本線の駅が順に並んだ後、支線の駅が並んでいるのです。乗り換えることは、日本語表示でした。彼女たちは、英語の路線図も持っているのですが、小さくてよくわかりません。
と言うか、知っている私には理解できるのですが、初めての人には難しいでしょうね。駅のアナウンスは、「方南町方面は中野坂上駅で乗り換えです」と繰り返していますが、日本語でした。英語でこれですから、ほかの言語だと、もっと苦労するのでしょうね。

英語で説明したのですが、私の英語が通じているか不安だったので、「中野坂上駅まで一緒に行くから」と一緒に乗り込み、中野坂上駅では列車から降りて誘導しました。
オーストレイリア(オーストラリア)から休暇で来た、ご婦人と娘さんでした。聾唖者の学校の先生でした。
さび付いた私の英語では、説明は苦労しながらもできるのですが、聞き取るのは難しいです。

伊藤聖伸著『ライシテから読む現代フランス』

2018年4月25日   岡本全勝

伊藤聖伸著『ライシテから読む現代フランス』(2018年、岩波新書)を読みました。ライシテとは、日本では耳慣れない言葉です。「フランスでの政教分離」と訳すとわかりやすいです。「ウィキペディア」。しかし、フランスでは大革命以来、日本では理解できないほどの、厳しい歴史があります。かつて、谷川稔著『十字架と三色旗―近代フランスにおける政教分離』を紹介したことがあります。

政教分離と言っても、各国の歴史的背景、社会での変化によって、状況が異なります。時代によっても変わります。
西欧では、キリスト教が広まる際に、ローマ帝国(皇帝)との戦いがあり、その後、国教となります。中世は、「カエサルのものはカエサルに」と、共存・相互分担でした。王様が、教皇から破門されることもありましたが。フランス革命で、キリスト教は国教の地位を追われます。しかし、教育は実質的に教会が担っていました。国民の多数も、教会に行くのです。その後、教育が世俗化する過程も、興味深い物があります。フランス革命は、身分を取り払うとともに、その支えであった宗教やギルドなど「中間集団」を認めず、国家が国民を直接支配することを目指します。
さて、「カエサルのものはカエサルに」と共存していた政治と宗教が、再度、緊張関係に立ちます。イスラム教徒の増加です。イスラムそれも原理主義は、政教分離でなく、一体です。
またスカーフをかぶることを、政教分離として認めるのか、逆に政教分離だから認めないか。難しい問題が生じます。

日本では、「八百万神」という考えが主流で、どのような宗教も許容します。しかし、スカーフをかぶるイスラム教徒が増加した場合、どのようになるでしょうか。輸血や手術を認めない宗教の信徒が、けがをして病院に運ばれた場合、医師はどのように対処したら良いのでしょうか。「政教分離」では解決しない問題が出て来ます。
「ほかの宗教も認める」という立場だから、複数の宗教が並存できます。「我が神が絶対第一だ。ほかの神は認めない」という宗教だと、政教分離は成り立ちません。

社会の分断や亀裂を、どのようにまとめ、統合するか。そこに、政治の役割があります。宗教は、統合の仕組みでもあり、他者との排除の仕組みでもあります。
ここには書き切れないほど、難しい問題です。新書ですが、深く考えさせる本です。お読みください。