カテゴリーアーカイブ:社会の見方

企業による表現の自主規制

2021年5月19日   岡本全勝

5月12日の日経新聞オピニオン欄、ファイナンシャルタイムズのジョン・ソーンヒルさんの「SNS無規制が招く危険 表現の自由、企業に任せるな」から。

・・・米フェイスブックの監督委員会が同社SNS(交流サイト)からトランプ前大統領を「追放」した会社側の対応を支持したことについて、トランプ氏の支持者は恥ずべきことだと語る。トランプ氏反対派の多くは、同氏が選挙後に首都ワシントンの暴動をあおったことに対する適切な処罰だと言う。
だが、それ以上に大きく重要な問題は、フェイスブックが構築し、委員を任命し、運営資金を出している監督委員会が果たして、そうした判断を下すのに適した団体なのかどうかだ。表現の自由の境界線を引くために、フェイスブックの「最高裁判所」と呼ばれる疑似公的機関の創設が民間企業に委ねられたのは、一体なぜなのか・・・
・・・かつて、認知科学者のジョージ・レイコフ博士はかつて、問題を特定の枠組みにはめることで都合よく政治・社会的な課題の結論を導き出せると説明したことがある。「どういう枠組みを設定するかによって問題が定義され、問題をどこまで話せるかも決まる」と同氏は述べている。
独自の監督委員会を創設することで、フェイスブックは表現の自由という問題の枠組みを巧妙に規定した。そうすることで、自社の業務慣行とビジネスモデルを暗に是認し、原因ではなく結果を重視する仕組みにしたのだ。だが、監督委自体が先日論じたように、これはフェイスブックが責任を回避できるということではない・・・

・・・これだけの質問をみても、フェイスブックが今、社会システム全体にとって重要な情報機関となったことが分かる。かつてラジオとテレビが規制されてきたように、現代におけるコミュニケーションインフラとして、厳しい監視の目を向ける必要があると考える根拠にもなる。
フェイスブックを擁護すると、監督委は確かに、以前と比べるとさらなる透明性とアカウンタビリティー(説明責任)を提供している。
フェイスブックのグローバル問題を担当するニック・クレッグ副社長は先日、本紙フィナンシャル・タイムズのイベント「グローバル・ボードルーム」に参加し、合意に基づく規制がないせいでフェイスブックは自ら空白を埋めるしか手がないと言った。また、監督委を立ち上げるために1億3000万ドル(約140億円)の予算を割り振ったと述べた。
さらに、クレッグ氏は監督委が設立からまだ日が浅いことを認め、フェイスブックとともに絶えず進化を遂げ、外部のパートナーをさらに呼び込んでいくと語った・・・

・・・だが、国連や市民社会が業界全体に対して監視体制を築こうとしている可能性を奪いつつあるとも危惧している。「(監督委は)興味深い仕組みで革新的だが、他の重要な体制づくりの可能性を潰してしまっている」とケイ氏は言う。
フェイスブックほどの巨大なSNSを運営・管理することは気が遠くなるような難題だ。フェイスブックの監督委や3万5000人のコンテンツモデレーター(管理人)、さらには最も優秀なアルゴリズムを駆使しても力が及ばないのは明白だ・・・
・・・オンライン上での表現の自由をめぐる問題には、単純な答えは存在しない。だが、より複雑な答えを探す試みは不毛だというわけではない。ただ、表現の自由というすべての人にかかわる問題について、フェイスブックという一企業が自社に有利になるように枠組みを規定することは許してはいけない・・・

詳しくは原文をお読みください。

日本企業の国際化、タケダ薬品

2021年5月18日   岡本全勝

5月13日の日経新聞「多様人材探るONEタケダ 経営陣7割が外国人、摩擦も成長の糧に」が、武田薬品工業の国際化について分析しています。

社長が外国人、経営陣19人のうち日本人は5人です。海外企業を買収し、海外売上比率は8割、4万7千人の従業員の9割が海外にいます。
本社は東京日本橋にありますが、アメリカの拠点に情報とともに経営の主導権が集まりつつあるようです。

生え抜きから幹部まで上り詰める社員は少なく、経営陣で新卒から武田に勤務する日本人は3人だそうです。幹部クラスの入れ替わりも激しく、上司が替わると方針が変わることもあって、戸惑う社員もいるようです。
しかし、このような摩擦が生まれても、グローバル化は止めません。そうしないと、世界で生き残れないからです。

買って捨てる、ごみ事情

2021年5月12日   岡本全勝

杉並区の広報誌4月15日号「特集 すぎなみビト 芸人・ごみ清掃員 滝沢秀一」から。
・・・目標はただ一つ。日本のごみ削減! お笑いコンビ「マシンガンズ」の滝沢秀一さんは芸人として活躍する一方で、9年前から民間のごみ清掃会社で仕事を始めました。収集現場の日常を発信したSNSが話題となり、現在は芸人と清掃員、二つの仕事をしながら、執筆や講演を通してごみについて考える大切さを伝えています。今号ではごみ清掃の仕事とごみの削減にかける思いをお聞きしました・・・

─ ほかにもごみ清掃員を始めて驚いたことはありますか?
なぜこんなものが出るのだろう? と驚くような、謎めいたごみはたくさんあります。
例えばバナナの皮はなくて中身だけとか、同じものだけが45ℓのごみ袋いっぱいに詰め込まれているとか。刃がむき出しの包丁がごみ袋に入っていたり、みそ汁がそのままごみ袋に捨てられていたりすることもあります。
水分は結構厄介で、ごみは圧縮しながら清掃車に収めるので飛び散るんですよね。僕らはこれを「ごみ汁」と呼ぶのですが、浴びると本当に臭いがとれません。また、水分は焼却時に余計なエネルギーを使うのでコストが増します。もちろんそのコストは税金から賄われます。
こういったことはあまり知られていないのではないでしょうか。生ごみは水分を多く含んでいるため、一回でもぎゅっと絞って出すことをおすすめします。

─ コロナ禍でごみそのものにも変化はありましたか?
家で過ごす時間が増えたことが影響しているのでしょう、とにかく収集してもしきれないほどごみの量が増えました。大掃除や模様替えをする人も多いようで、洋服や100円均一で買えるような収納用品が大量に出ている印象です。安く買った分、捨てることがあまり惜しくないのかもしれません。ご
みと日々向き合っていると、「安く買ってすぐに捨てる」というサイクルが私たちの社会では当たり前になっているのかな? という気がします。

ウィキペディア20年

2021年5月11日   岡本全勝

5月1日の日経新聞、村山恵一・コメンテーターの「20歳のWikiに映る「格差」 ネットの百科事典の壁」から。ウィキペディアができて、もう20年、まだ20年なのですね。
・・・無料のオンライン百科事典ウィキペディアが2001年の開設から20年を迎えた。記事は5500万本以上あり、閲覧は月に150億回以上にのぼる。インターネット時代を象徴する存在に育った。
感じるのは「人とネット」をめぐる2つの側面だ。今後の希望を照らす「光」と、対応すべき重い課題を示す「影」がある。

まずは「光」から。匿名の個人がボランティアで編集者(新規記事の執筆や修正を担う人)をつとめるコミュニティーの力だ。
ウィキペディア創設者のジミー・ウェールズ氏がはじめに手がけたのは専門家が編集するサービスだったが、すぐ行き詰まる。1年で書かれた記事は12本だった。

並行して試みた誰でも参加できるウィキペディアは開始後1カ月を待たず1000本を突破した。ほどなく日本語版を含む多言語化が始まり、利用は世界に広がる。
運営する非営利団体、米ウィキメディア財団は編集に直接タッチしない。編集者は世界の28万人(月間)。毎分350回編集され、中立性などの基準を満たさない編集をする「荒らし」があってもおおむね5分以内に対処される。
記事への出典明記、意見の対立を収める対話・審議、集中的な編集の繰り返しなどで混乱したときの編集機能の一時停止……。こうしたルールやしくみはあるが、やはりこのサービスの肝は大勢でコラボレーションする精神だ。
「世の中のために良いことをするという使命感をもった人たちのコミュニティーがウィキペディア成功の理由だ」。財団のジャニーン・ウッツェル最高執行責任者(COO)は語る・・・

記事は5500万本以上、編集協力者は月間28万人以上、閲覧は月間150億回以上、荒らし行為への対処5分以内、対応言語300以上だそうです。私もお世話になっています。

「宗教と日本人」

2021年5月10日   岡本全勝

岡本亮輔著『宗教と日本人ー葬式仏教からスピリチュアル文化まで』(2021年、中公新書)が、よかったです。

梅棹忠夫の日本の宗教」に書きましたが、これまでの宗教論が、知識人や提供者側の議論であって、受け手である庶民の視点が抜けていました。梅棹先生は、「メーカーの論理とユーザーの論理」と指摘されます。近年、日本宗教史に関して、2つも叢書が出たのですが、これらも提供者側からのものでした。この本は、庶民の側から書かれています。

キリスト教を基準とした宗教観ではなく、初詣や地鎮祭からパワースポットまで、幅広く宗教的なものを扱います。その切り口は、信仰、実践、所属です。葬式仏教は信仰なき実践、神社は信仰なき所属、スピリチュアル文化は所属なき私的信仰です。個人で信じる新宗教、家族で信じる仏教、地域で属する神道という見立ては、わかりやすいです。日本のキリスト教は、キリスト系系学校などを通じたブランドであると位置づけています。

私たちは、お正月は神道、結婚式はキリスト教、葬式は仏教、神頼みは神道と、目的によって宗教を使い分けています。梅棹先生は、日本人が複数の宗教を信じることについて、それが混じり合っているのではなく、「神々の分業」であると指摘されます。この点については、『宗教と日本人』は深く触れていません。