カテゴリー別アーカイブ: 社会

社会

加藤秀俊著『社会学』

加藤秀俊先生が『社会学 わたしと世間』(2018年、中公新書)を出されました。先生は1930年のお生まれ。88歳になられるのですね。この本は、先生の社会学の集大成、そのエッセンスでしょう。  表題の「わたし」には、普通名詞の「私」と、加藤先生の「私」の、二つの意味があるようです。

「社会を世間と言い換えれば、よくわかる。社会学とは世間を対象とした学問、世間話の延長である」と主張されます。しかし、学問としては、それは都合が悪いのでしょうね。専門用語で、素人がわからない話をしないと、ありがたみが薄れるのです。そして、欧米から輸入したという権威付けも。多くの学問はそれで良いのでしょうが。私たちが生きて行くには、社会学・世間学を知っている方が、苦労をしません。そこが、ほかの学問との違いです。すると、平易な言葉で書かれている方がよいのです。

私は学生時代、授業の社会学が、今ひとつ理解できませんでした。清水幾太郎さんの本で、社会学とはこんなものかと理解しました。そして、加藤秀俊先生の本を読んで、社会とはこんなものだと理解しました。また、京都大学人文研究所の先生方の本を読みました。これらは、すごくわかりやすかったです。
大学の先生の本=西欧の輸入に対し、これらの本は、日本社会を日本語で分析していたのです。だから、加藤先生や人文研の本を「社会学」とは思わなかったのです。加藤先生が書かれているように、難しい専門用語で(西欧の社会を)語ることが、大学の社会学だったのです。
その傾向は、未だに続いているようです。「思想」というと、ソクラテスから現代フランス哲学まで、西欧の思想が解説されています。日本人、それも庶民の思想は出てきません。困ったものです。ここは、歴史学において、政治史や経済史から、庶民を含めた社会史や文化史に転換したことが思い浮かびます。エリートたちの思想とともに、庶民の思想を含めて、国民の思想と言うべきでしょう。これについては、別途書こうと思っています。

この本は入門書ですが、社会学の基本が整理されています。集団、コミュニケーション、組織、行動、自我、方法です。それぞれが、私たちの日常生活、現代の生活に即して解説されています。わかりやすいし面白いです。このうち、コミュニケーションだけがカタカナです。何かよい大和言葉はないのでしょうか。

ところで、加藤先生の本になじみのない人は、先生の文章に違和感を感じるところがあるでしょう。形容詞がひらがななのです。

まだ外国人には不親切な日本

先日の夜のことです。地下鉄新宿3丁目駅で乗り換えた時、プラットフォームでまごついている白人女性2人がいました。英語で声をかけると、柱に表示された丸ノ内線の駅の一覧を示しながら、「中野新橋駅に行く方法がわからない」とのこと。

中野新橋駅は、丸ノ内線の支線にある駅です。ほとんどの列車は、本線の荻窪駅行きなので、途中の中野坂上駅で乗り換えます。
確かに、案内表示を見ても、直ちには理解できません。本線の駅が順に並んだ後、支線の駅が並んでいるのです。乗り換えることは、日本語表示でした。彼女たちは、英語の路線図も持っているのですが、小さくてよくわかりません。
と言うか、知っている私には理解できるのですが、初めての人には難しいでしょうね。駅のアナウンスは、「方南町方面は中野坂上駅で乗り換えです」と繰り返していますが、日本語でした。英語でこれですから、ほかの言語だと、もっと苦労するのでしょうね。

英語で説明したのですが、私の英語が通じているか不安だったので、「中野坂上駅まで一緒に行くから」と一緒に乗り込み、中野坂上駅では列車から降りて誘導しました。
オーストレイリア(オーストラリア)から休暇で来た、ご婦人と娘さんでした。聾唖者の学校の先生でした。
さび付いた私の英語では、説明は苦労しながらもできるのですが、聞き取るのは難しいです。

フェイスブックの功罪

4月16日の日経新聞オピニオン欄、ジョン・ギャッパー氏(ファイナンシャルタイムズ)の、「フェイスブック 「つながり」管理に限界」から。詳しくは原文をお読みください。
・・・フェイスブックはすでに、従来おざなりだった個人情報の管理を厳格化した。ところが対処できない問題もある。20億人のユーザーの無数のやり取りの中であらゆるコンテンツがウイルスのように拡散し、人々の感情や行動を左右する可能性があることに対してだ。
フェイスブックはザッカーバーグ氏が創業当初に描いた「愛する人たちとのつながりを維持し、自分の意見を表明し、コミュニティーやビジネスを築く」ようなやり取りを促したいと考えている。
それは賢明なことだろうが、問題の核心からは外れている。というのも、フェイスブックは米社会学者マーク・グラノベッター氏が言うところの「強い紐帯(ちゅうたい)」と「弱い紐帯」を特に区別しないことで急成長したからだ。前者は家族や友人、同僚との親密な関係を指す。後者は遠い知り合いや他グループの人々とのつながりだ。フェイスブックでは全ての「友達」が平等だ・・・

・・・グラノベッター氏が指摘した通り、弱い絆が強い絆より役立つこともある。例えば職探しだ。身近なところで仕事を探すより、幅広い人脈を活用した方がいい。
フェイスブックの95万7000人のユーザーと彼らがつながっている5900万人を分析した調査では「ほとんどのつながりは弱く、人脈も限定的で、やり取りも少な」かった。だからこそ、フェイスブックは「社会的隔たりを超え、幅広い層の人々に情報を伝える強力な手段」となったといえる。ある研究によると、人は気分や行動、そして体重の増減までも弱い絆の相手に影響されるという。
フェイスブック上で家族と遠い知り合いや、強い紐帯と弱い紐帯の境界があいまいになる問題点はまさにここにある。こうしたつながりは思い通りにはならず、良いことも悪いことも増殖していく・・・

生産性を上げるために、サービスは有償

4月12日の朝日新聞オピニオン欄「サボりのススメ」、海老原嗣生さん(雇用ジャーナリスト)の「完璧求める意識変えては」から。
・・・生産性とは、アウトプットつまり成果を、インプットすなわち労働量で割ったものです。成果が一定なら、時間をかけて丁寧な仕事をするだけ生産性は下がります。極端なことを言えば、仕事をいい加減にして労働時間を減らした方が生産性は高まるんです。
日本で「生産性を上げる」というと、労働時間は減らさずに仕事を効率的にして、もっと成果を増やすことを意味します。これは、企業の問題というよりは、生産性に結びつかないものを社会が求めていることがあると思います。
たとえば日本は返品をゼロに近づけようとしますが、欧米は「不良品があれば返品してもらえばいい」という発想です。不良品率を1%から0・1%にするために労働時間が1割増えれば、生産性は落ちてしまうのに、日本はクレーム社会のために不良品には不満や文句がつき、返品すればいいという話にはなりません。社会が完璧を求めて、生産性を下げているんです。

「お客様は神様」の意識も問題です。「明日までに終わらせて」「いくらでやってくれ」と納期や金額の条件を示されると、「できません」と言いづらい。海外は「モノやサービスとお金の等価交換」という意識なので、客が厳しすぎる要求をすれば「やりません」で済みます。
そもそも、「サービス残業」が「無給残業」の意味で使われているのがおかしいんですよ。サービスには対価が伴うのが当然ですが、日本では「サービス=無料」という意識が根強くあります・・・

同じく、中田克哉さん(八重洲地下街相談役)の次の発言には、私も経験があります。
・・・ 当時は右肩上がりの時代で、土日出勤や残業は当たり前でした。一方で、会社には社員の息抜きを許容する余裕があったと思います。時間の流れも緩やかで、ラジオで高校野球の中継を聞きながら仕事することもありました・・・

第三者委員会の功罪

NHKニュースウエッブに「“不合格”続出 第三者委員会って名ばかり?」が載っていました。記事に出てくる、格付け委員会は、「第三者委員会報告書格付け委員会」です。

1月18日の読売新聞解説欄で、久保利英明・弁護士が、「名ばかり第三者委 企業の損失」を書いておられました。
・・・十数年前から、企業の不祥事が発覚した際、弁護士らが独立した立場で原因を調べる「第三者委員会」が設置されるようになった。
不祥事が始まった時期や原因を究明し、再発防止策を報告書で提言するものだ。世間の信頼を失った企業が自ら調べるより、調査に対する信頼性や客観性が高い。
しかし、現実には、経営者から依頼を受け、企業の不正を隠して責任逃れを助ける「名ばかり第三者委員会」が散見される・・・

4月10日の朝日新聞は「神鋼報告書「評価に値せず」」を書いていました。神戸製鋼がデータ改ざん問題を受けて3月に公表した調査報告書について、報告書の原本を「訴訟で不利になるリスクがある」として非公表としています。これについて、この第三者委員会報告書格付け委員会が、「説明責任より訴訟対応を優先したのは妥当か」と批判しています。

組織で不祥事が発生した場合に、第三者委員会を設置して、原因究明や再発防止策を提言することが行われています。いわば、一種のはやりです。
しかし、原因究明に至らなかったり、報告書を公表しないようでは、不正隠しの一手法でしかありません。ひとまず「第三者委員会で調査してもらいます」と答えておいて、ほとぼりが冷めるのを待つ、となっていないでしょうか。
これとよく似たのが、新聞社の取材に対して、「(正式に受け取っていないので)コメントできない」といった答えをすることです。
このような「逃げ」を防ぐためには、マスコミが忘れることなく、後日に追いかけた取材と報道をしてくれることです。

もう一つ、私は、第三者委員会は「逃げ」だと思う理由があります。それは、職員が外部の人に真実を話すかということです。
組織内(会社ににしろ、役所にしろ)で証言しない職員が、外部の人に話すとは思えないのです。調査するなら、外部の人に丸投げするのではなく、幹部職員が責任を持って職員から聞き取りをすべきです。
そして、それでも十分な調査ができないようなら、その組織の「実力」が疑われます。それはまた、その組織の評価を下げることになるでしょう。
部下がやってしまった失敗の責任をとることと、調査をする責任との違いについては「私の経験」をお読みください。