カテゴリーアーカイブ:社会と政治

AI社会で個人の尊重をどう守るか

2025年10月23日   岡本全勝

9月20日の朝日新聞オピニオン欄、山本龍彦さんと青井未帆さんの対談「AI社会「個人の尊重」は」から。近代市民社会、憲法は、自立した個人を前提にしていましたが、「弱い人」もいることがわかり、子ども、労働者、病人、障害者、消費者へと「保護の対象」を広げてきました。情報もその考察の対象とするべきなのでしょう。

――「すべて国民は、個人として尊重される」と定めた憲法13条では、様々な情報をもとに自分の頭で理性的に考えて選択する「強い個人」が想定されていました。しかし、SNSの隆盛や、刺激的なコンテンツで閲覧数を稼いで広告収益などを上げようとするアテンション・エコノミーが進んで言論空間に分断が生じる中、これまでの「個人」像が挑戦を受けているのではないでしょうか。

山本龍彦さん 夏の参院選の結果は両義的でした。これまでは組合や経済団体など様々な老舗組織の影響力が強く、個人が存在感を発揮できない面がありました。SNSから直接情報を得て判断することが当たり前になり、個人が従来型の中間団体支配から解放されたとみることもできます。
しかし、その個人の判断が本当に理性的で自律的だったかはわかりません。SNS事業者は、より多くのアテンション(関心)を獲得するため、AIを駆使して、その利用者が最も強く反応しそうな刺激的な情報を選別してオススメしています。既存メディアの情報から自由に、自分の頭で判断したと思った人もいるかもしれませんが、情報の選別や偏りがあるという点ではSNSも同じです。メディアの「色」よりもSNSの「色」の方が気づきにくいので、個人の意思決定に対する操作性は、より高まったとも考えられます。

青井未帆さん 参院選の結果についてはさらに分析が必要ですが、個人が脆弱な存在であるということは明らかになったと思います。

山本 AIの属性予測に基づいてカスタマイズされた「刺激」が次々とオススメされますから、個人はかなり脆弱な状態に置かれますよね。
個人の無力化は、個人データ保護の議論でも見られます。動画視聴時も商品購入時も、私たちの個人データは常に、大量にやりとりされ、いまや誰とどこで共有されているのか個人はわからない。これまでは本人同意が基本でしたが、もはやデータの取り扱いを個人がまともに意思決定するのは能力的にも無理なので、本人同意は諦めて、事業者のガバナンスを適正化していく方向にかじを切るべきだとの議論も有力化しています。憲法学でも、個人データに対する本人の主体性を認める「自己情報コントロール権」が通説でしたが、最近では批判も強く、その地位が揺らいでいます。
自己情報コントロール権への攻撃は、AI化を推進する立場からも起きています。AI化を強力に推進するには、データフローを最大化し、あらゆるものをシステムにつなぐことが求められます。そこでは、個人よりも社会全体の生産性を向上する「全体最適」が強調されることも多い。この立場からすると、データの世界で権利を主張する個人は、「滑らかな繋がり」を阻害するノイズでしかないのです。実はAI規制の文脈でも、特に米国では、個人に権利を主張させるのではなく、事業者側に透明性や説明責任など適正なガバナンスの構築を求める傾向があります。

青井 近代的な個人観は検討し直さなければならないでしょう。ネットワークの世界では、個人はネットワークにお世話をしてもらい、依存しているように見えます。人がこの世界に生まれ落ちた時、必ず誰かにお世話をしてもらわなくてはいけないという状況と近接している気がします。脆弱な存在です。
依存という点では、健康を損ない、最終的に他人や自分を殺したりする結果も生んでいます。実際に米国では、プラットフォーマーがアルゴリズムで若者をSNSに依存させ、心身の健康を損ねたとして裁判も起きています。チャットボットとの会話が日常的になり、AIを感情を持つ存在のように扱うことによるリスクも指摘されています。
一方で、繋がらない世界もあるわけです。私たちは「侵襲される身体」を持つ存在です。人は必ずだれかと関係を持ち、関係の中に人が存在する。身体性が優位な空間は、まだ残されているのではないでしょうか。

山本 デジタルの大海に放り出された個人には他者のケアが必要ですが、その「他者」は身体性をもった人間なのか、AIなのか。尊厳を重視するEU(欧州連合)では、重要な事柄をAIのみで自動的に決定されない権利が個人に保障されています。これは「人間」の関与を要求できる権利、身体的な関係性をノイズとして確保する権利とも言える。
その背景には、AIがつくり出す脆弱性や精神的疎外のケアを、生成AI自身に任せることは果たして可能なのかという問題がある。

この国のかたち、外国人との共生

2025年10月7日   岡本全勝

憲法とは、その国のかたち・基本を定めるものですが、憲法に書かれていない「この国のかたち」もたくさんあります。
私は、明治憲法と昭和憲法には、第1条の前に第0条があったと考えています。その第1項は「国民は勤勉に働き、豊かになることを目指す」で、第2項は「その際には、欧米を手本にする」です。昭和後期に豊かさを達成したことで、第2項は不要となり、第1項は代わる条文を模索中です。
このほかにも、日本語を国語とすること。男女同権と言いつつ多くの分野で男尊女卑であること。結婚すると妻は夫の姓を名乗ることなどの慣習もありました。これらは、急速に変化しつつあります。

近年問われている「この国のかたち」の一つが、定住外国人との共生です。
移民政策(労働力として外国人を受け入れる)を取らないと政府は主張していますが、実際はなし崩し的に受け入れています。問題は、彼らをどのように社会に受け入れるかです。
一方で包摂を目指す人たちがいて、他方で排斥する人がいます。このような国民の間にある対立を調整する経験を、近年の日本政治・国会はしたことがありません。1952年の独立の際の、全面講和と単独講和との対立以来かもしれません。しかしそれも「外圧」でした。

意外な問題から、この国のかたちが問われ、政治の役割が問われることになりました。日本国、日本社会をどのようにつくっていくか。結果とともにその過程も、この国のかたちです。

低温社会と低温政治

2025年9月14日   岡本全勝

低温経済と低温社会」の続きになります。
本棚の本を片付けていると、1990年代と2000年代の政治や経済に関する本がたくさん出てきます。同時代を分析する評論です。佐々木毅、北岡伸一、佐伯啓思、西部邁、御厨貴、田中直毅、田勢康弘といった大学教授や評論家、新聞記者がたくさん書いています。現状を批判しつつ、その構図・構造を分析して、改革論を述べています。学術書と評論との中間的な本です。
バブル経済が崩壊し、経済も政治も行き詰まっていることが明らかになり、それを克服することが課題だったのです。

それで思ったのですが、最近はそのような本が少ないですね。出版されていても、私が買っていないのでしょう。本屋を覗くと、政治や経済評論の本やトランプ大統領に関するものなどが並んでいますが。
政治や経済が動かないと、分析や評論の対象になりにくいのでしょう。
前回、「適確な処方箋がないことも、対応を遅らせているのでしょう。研究者や報道機関の奮起を期待します」と書いたのですが、分析はされていても、現場がそのように動かない問題だからかもしれません。必要なのは制度改革ではなく、運用だからでしょう。

その後、中央省庁改革、地方分権改革、いくつもの規制改革などが実施されましたが、政治行政改革はそこで止まったようです。経済界では、その後も攻めの経営が活発になるのではなく、コストカット(人件費削減、経費削減)が続き、経済は長期の停滞を続けました。
政治では、民主党への政権交代と自民党の復帰がありましたが、政治課題に本格的に取り組んでいるとは思えず、与野党を含めて政治構造が変わったとは見えません。経済界も縮小が続き、拡大発展の話題はあまり聞きません。

1990年代は、まだ改革に向けての「熱意」「活力」があったのでしょう。2020年代には、その熱意が感じられないのです。
あきらめのように見えます。評論はされるのですが、構造的改革・本格的改革には取り組まないのです。衝撃的な危機ならば対応を急ぐのでしょうが、緩慢な衰退は危機感をもたらさないのでしょう。「ぬるま湯」と例えられますが、ぬるま湯は温度が下がっていきます(通常、ぬるま湯の例えは、温度が上がって茹で上がる場合に使うようですが、今の日本は冷めていく状況です)。

豊かさと自由の先にある退屈さ

2025年9月13日   岡本全勝

1980年代に日本は豊かさを達成し、安全で自由な社会を手に入れました。では、国民は満足したか。どうも、そうではなさそうです。

人類は長年、豊かで自由で安全な暮らしを求めて努力してきました。自由主義先進国は、ほぼそれらを達成したと思われます。日本は、自由と安全において、世界でも上位でしょう。その点で、過去の人たちや権威主義的な途上国に比べて、幸せになったと言えます。もちろん現在の日本は、格差や子どもの貧困など、まだまだ解決しなければならない問題があります。
ところが、豊かさと自由と安全を手に入れても、人は満足できないようです。それらを苦労して手に入れた高齢者は、過去と比べ満足することができます。他方で、若者はその状態が当然のことであり、特に幸せとは感じないのでしょう。

何不自由ない生活が実現したら、それは退屈な生活でしょう。
天国や極楽浄土は、何の悩みもない快適な世界だそうです。それについては、「苦しみがなければ、喜びもないのではないか」という指摘もあります。黒がなければ、白はないのです。
すると、完全に幸せな暮らしは、成り立たないのでしょう。苦しみがないと、幸せは理解できないのです。過去との比較や、未来への希望がないと、人は満足できないのでしょう。未来に向かって努力する、そして良くなっていると実感できることが満足を生むようです。

古代ローマ帝国が繁栄の後、衰退しました。原因はいろいろ挙げられていますが、強い軍隊と健全な政治を支えた市民層が、パンとサーカスに堕し、内部から衰退したことが大きな理由と考えられます。努力、成功、満足の次には、慢心と退屈が待っているようです。

低温経済と低温社会

2025年9月7日   岡本全勝

私は、2001年に実施された中央省庁改革に参事官として従事し、その後、地方分権改革や三位一体の改革にも関与しました。小泉内閣での経済財政諮問会を舞台にした改革も、目撃しました。最近の政界や官界、言論界を見て思うことは、当時ほどの「改革に対する熱」がないことです。

「低温経済」という言葉がありましたが、「低温政治」「低温議論」という言葉も必要なのでしょうか。
低温経済でも革命も起きず、それを理由にした政権交代も起きず、社会に大きな混乱も生じませんでした。非正規雇用が増え、こどもの貧困、格差社会という大きな問題が静かに進んではいるのですが。大恐慌のような経済破綻ではなく、経済は成長しない代わりに、大きな低下もしなかったのです。
「ぬるま湯」という表現がありますが、よく当てはまります。適温ではないのですが、飛び出すほどの冷たさではありません。ところが、世界では各国がどんどん成長し、日本は置いて行かれたのです。国内でぬるま湯に浸かっているかぎりは、気がつかないのですが。家電産業や自動車産業が国際競争に敗れ、工場が閉鎖されることで、その実態がわかります。

政治や言論界での改革議論の停滞も、同じでしょう。国際的には「ガラパゴス政治」を続け、増税せずに大きな支出を続けることで、とんでもない借金王国になっています。国債が暴落するまで、ぬるま湯に浸かっているのでしょうか。
社会に元気がなくなるということは、このようなことでしょう。しかし、若い国民は、30年前の時代、日本社会に活力があった時代を知らないのです。このような状態が普通なのだと思ってしまうのでしょう。
海外に出たり留学したりすると、日本の特殊性が見えるのですが。留学者数も減っているとのことです。

努力が報われない日本社会?」も、これと関係しているのでしょう。
急激な変化には、政治家も世論も盛り上がりますが、緩慢な変化には対応は鈍いようです。また、適確な処方箋がないことも、対応を遅らせているのでしょう。研究者や報道機関の奮起を期待します。