「生き方」カテゴリーアーカイブ

生き様-生き方

秀吉「夢のまた夢」

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢

有名な、豊臣秀吉の辞世の句です。
初めて聞いたときは、意外に思いました。あの権力者、しかも貧農から自分の力と時の運で最高実力者にまで駆け上った人でも、このような気持ちになるのかとです。
最高実力者になったからこそ、このような句が詠めたということもあります。
もちろん、師匠が手を入れたのでしょうが。

61年の人生でした。
1598年の死後2年で、天下は大阪城の豊臣氏から、江戸城の徳川氏に移り、1615年には大阪城も滅びます。
もちろん、織田信長の遺業を継いで、天下統一を成し遂げた功績は不滅です。

買い物で磨かれる自分らしいセンス

日経新聞折り込み広告誌「THE NIKKEI MAGAZINE」9月21日号、松浦弥太郎さんの連載「日々是見聞録」は「買い物で磨かれる自分らしいセンス」でした。

・・・買い物は、ただ欲しい物を手に入れるための行為ではない。むしろ、自分の心と向き合う、小さな修行のようなものだと思っている。
品物を前にするとき、必ず「どちらにしようか」「どうしようか」と迷う。色や形、値段や使い心地。どれを選ぶか、その一つひとつの判断に、自分の価値観すなわちセンスが問われる。
とすると、買い物とは、実は自分の「好み」や「美意識」を一つひとつ確かめる作業ではなかろうか。
とくに洋服やアクセサリーを選ぶとき、それははっきりと表れる・・・

・・・小さな決断の積み重ねは、着こなしという経験を得て、やがて自分自身の雰囲気や佇まいをつくっていく。
もちろん、悩んで買った服がほとんど出番を得ずにクローゼットの奥で眠ってしまうこともある。しかし、その後悔もまた大切な学びになる・・・成功と失敗を繰り返すうちに、少しずつ目が磨かれ、ものを選ぶ力が養われていく。

だからこそ、もし買い物をまったくしなくなったなら、その瞬間から、美意識の成長は止まってしまうのかもしれない。新しい色や形に触れることも、自分を試す機会もなくなり、感性の扉は少しずつ閉じていくだろう。そう、買い物は浪費ではなく、自分の中のセンスという感覚を耕す行為なのだ。

センスのよい人とは、生まれつき特別な感覚を持っている人ではなく、選んで買うという、ある種の修行を繰り返し、自分の目と心を磨き続けている人だと思う。
今日、何を買うか。その小さな選択の積み重ねが、やがて「自分らしさ」というかけがえのないセンスを育て、人生を少しずつ美しくしていくのだ。
そして買い物とは自分を知るための学びという名の営みである・・・

承認欲求とどう付き合うか

7月2日の朝日新聞、西尾潤さんの「承認欲求とどう付き合う?」から。

・・・誰かに褒められると、自分が認められたようでうれしくなる。子どもの時だけでなく、30代になった今でもそうだ。一方、期待したほどの評価が得られず、悩み苦しむこともある。そんな「承認欲求」と、どう付き合っていけばいいのか。マルチ商法の世界で認められたいともがき、堕(お)ちていく主人公を描いた小説「マルチの子」の作者、西尾潤さんに聞いた・・・

――承認欲求について、今はどう考えていますか。
自分のことを認められない、自信がないから、他者からの承認を求めてしまう、ということだと思っています。でも、褒められたらうれしいという気持ちは、誰しもあるものじゃないですか?
承認欲求って、人間が社会の中に「よりよくいよう」と思うからこそ出てくるものだと思います。
たとえばSNS。多くの「いいね」がうれしくて、Xに気の利いた言葉を載せる、インスタグラムに楽しそうな写真をアップする。でも、いい言葉を探すのは悪いことではないし、楽しそうなふりをしていたら本当に楽しくなるかもしれない。
ただ、それが“自分軸”ではなく“他人軸”になってしまうと、しんどくなるんじゃないかと思います。

――他人軸、ですか。
承認欲求には、どうしても「他人と比べてしまう」という側面があります。私もありますよ。自分よりあとにデビューした作家が一気に売れて賞を取ったりすると、「私はなんでできないんだろう」と苦しくなることもあります。
でも、比べる対象を過去の自分や未来の理想にしたら、ずいぶん気持ちが楽になりました。過去の自分と比べると、今の自分はすごく進んでいるんですよ。デビュー前の、新人賞に応募した小説が引っかからなくて、「私の作品、読まれていないのでは」と落ち込んでいた頃と比べると、今こうして取材を受けていること自体、すごい進歩です。
今はSNSで他人の動向や評価が可視化されてしまうから、まったく比べないというのは難しいかもしれない。でも今まさに承認欲求で苦しんでいる人がいるなら、「比べない努力をしながら、一緒にやっていきましょう」と言いたいですね。

頑張る、社会的歴史的意味

6月7日の朝日新聞オピニオン欄「「頑張る」と言う前に」、大川清丈・帝京大学教授の「能力平等観、報われぬ社会」から。

・・・「頑張る」の辞書的な意味には、忍耐と努力の要素があります。ここには、誰でもやればできるという「能力平等観」が関係しています。生まれつきの能力はあまり違わないという見方です。差があっても後から挽回でき、結果は「頑張り」次第、となります。

歴史的に見てみましょう。日本は明治期以降、立身出世の時代になります。たとえ生まれが貧しくても、頑張れば上に行けるようになりました。さらに戦後は焼け野原で、皆が平等に貧しかった。平等も、「頑張り」を生む一つの条件になります。不平等だとあまり頑張る気がしませんが、平等だと頑張る気になる。当時は食糧難という困難の共通体験があり、何とかして貧しさから脱却したい、おなかいっぱい食べたいという、国民共通の目標もあった。平等、共通体験、共通目標によって、「頑張り」が広がったと私は見ています。

指摘したいのは、「頑張り」は社会的なものでもあるということです。立身出世の時代でも、同級生や仲間同士で切磋琢磨していました。1人で頑張るよりも、頑張れ、頑張ろうと共に努力したのです。
そんな「頑張り」は高度経済成長期に浸透していきます。会社のために頑張ればそれだけ年収が増える時代だったのです。その流れが変わったのはバブル期でしょう。ぬれ手であわのように金もうけができると、まじめに働いても馬鹿を見ると感じます。さらにバブル崩壊後、今度は頑張っても報われなくなった。いわゆる格差社会です。ますます「頑張り」の基盤が掘り崩されていきます。

1995年の阪神・淡路大震災では「がんばろう神戸」が合言葉となりましたが、被災者に「頑張れ」は心ない言葉だ、とも言われるようになりました。97年ごろから三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券などが経営破綻する中、「頑張らない」というスローガンが出てきます。2000年には鎌田實さんの著書「がんばらない」もヒットしました。当時の「スローライフ」、令和の「親ガチャ」にも通じる流れでしょう。

とはいえ、「頑張り」という言葉は、今でもしぶとく残っていると思います。「頑張ります」など、皆があいさつのように言い、一種の空気を読むような言葉としても使われ続けています。これだけ価値観が多様化しても、社会を辛うじてつなぎとめる言葉の一つと考えられるかもしれません・・・

強い心臓2

強い心臓」の続きです。今回は、俗な表現についてです。

辞書には、「強心臓は度胸があって何事も恐れないこと。また、恥知らずで厚かましいこと」とあります。心臓に毛が生えているとか。でも、心臓に毛が生えるって、どんな状態なのでしょう。想像しにくいです。
「神経が図太い」は、なんとなくわかります。ところが、「無神経」という反対の表現でも、同じような意味になります。

私も、そのように言われることがあります。本人はいたって小心者で、おどおどしているのですが。人前では、そう見えないように演技しています。

私が知っている強心臓と呼ばれる人には、二種類あります。
一つは、相手を気にせず、ただ厚かましいだけ。
もう一つは、相手に気配りができて繊細で、それを踏まえて他の人は言えない正しいことを言う人です。