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愛国心、いびつな言説はメディアにも責任

朝日新聞オピニオン欄4月16日は、大沼保昭教授の「日本の愛国心。『誇り』か『反省』か、極論を見せ続けたメディアにも責任」でした。
「最近、日本人の愛国心が変だと心配されていますね」との問に。
・・「愛国」や「日本人の誇り」を主張する人が、日本の起こした過去の戦争を反省する姿勢を「自虐」と切って捨てる姿勢が強まっています。戦争を真剣に反省して努力を重ねたからこそ、世界に誇り得る戦後日本の見事な復興と達成がある。そこが十分理解されていないのではないでしょうか・・
・・他方、現在のいびつな状況をつくり出した大きな責任は、「愛国」「誇り」の論者と過去を「反省」する論者を対立させるという「激論」の図式で人々の思考に影響を与え続けてきた日本のメディアにあるのではないか。戦後日本は過去を反省し、世界の国々から高く評価される豊かで平和で安全な社会をつくり上げた。それを私たちの誇りとして描き出さず、戦前・戦中の日本に焦点を当てて、愛国か反省かの二者択一の極論を見せ続けた。その結果、いびつな愛国心が市民に広がったのではないでしょうか・・
・・私はずっと、戦後日本は過去の植民地支配と侵略戦争を反省して平和憲法を守り続けてきたことを世界にもっともっと発信した上で、欧米に対して「あなたたちはどうだったのですか?」と問題提起をするべきだと主張してきました・・

違うテーマで署名記事2本

今朝16日の朝日新聞1面に、「原発事故からの避難、移住進む 家や土地取得1791件」が載っていました。中村信義記者の署名入りです。2面に、「党拡大、資金集めの呪縛 渡辺前代表8億円問題、軌跡を追う」の記事があり、中村信義記者の署名が入っています。復興と政治資金をテーマに2本の記事、それも1面と2面。他の記者との連名とはいえ、大活躍ですね。

政治評論の役割、2

御厨先生の指摘を読んで、私は、アカデミズムとジャーナリズムの罪を考えました。もっとも、これは私のオリジナルではなく、多くの識者が指摘していることです。
これまで日本のアカデミズムは、海外の理想的な政治制度を紹介して、それを基準に日本の政治は遅れていると、国民を教育してきました。その際に、イギリスやフランス、アメリカでも、ここに至るまでにどのような経験と犠牲を払っているかを、捨象しています。そして、それらの国々でも、日々の政治の運用では、そんなに単線的にかつきれいに進んでいるのではないこと、利害対立が激しいことを教えません。
ジャーナリズムもまた、その理想を基準に、「日本の現実政治はダメだ」と批判します。それはある面必要です。しかし、「あれもダメ、これもダメ」と批判するだけでなく、「ここはダメだが、ここは良い」と指摘しないと、「全て悪い」では、改良と進歩がありません。また、理想に近づく道筋を指摘しないと、無責任です。
子育ても、部下職員の教育も同じでしょう。欠点をしかってばかりでは、子どもは育ちません。良いところを誉め、欠点は修正の方向を示す必要があるのです。
あわせて、政党の扱いが小さすぎると思います。日本は、議会制民主主義をとっているのですから、政党を通じて政策を実現するのが、正当な道です。すると、それぞれのテーマ・政策について、各党の主張を検証し、より正しいと思われる政党を支援することが必要でしょう。政党を誉め、批判して、育てることが必要です(官僚批判をしているだけでは、良い政治は実現しません)。

政治評論の役割

御厨貴著『馬場恒吾の面目―危機の時代のリベラリスト』(文庫版、2013年、中公文庫)を読みました。
馬場恒吾は、1875年生まれ、1956年死去。20世紀前半のジャーナリストで、昭和前半を独立した政治評論家として活躍しました。戦後は、読売新聞社長を務めています。
勉強になったか所を、引用しておきます、
・・「戦後」70年近くになるが、今や「政治評論よ、何処へ行く」の感を深くする。55年体制と自民党一党優位体制の確立は、まちがいなく政治評論を不毛にした。では55年体制の崩壊とその後の「政治改革」の20年は、どうだっただろうか。いやいっこうに政治評論ははかばかしくなかった。
55年体制下で紡がれたのは、ミクロな政局の叙述と、マクロな政治の展望との二つに集約される議論であった。ミクロとマクロのつなぎの部分が実はない。ジャーナリズム出身者による政治評論はミクロを得意とし、アカデミズム出身者によるそれはマクロに傾斜した。知らず知らずのうちに、相互不可侵の態勢ができあがり、自己満足以上の成果はなく、現実政治に影響力を与える筆の力はなまくらなまま打ち過ぎた。
政治構造の転換を余儀なくされたこの「政治改革」の20年も、小選挙区・二大政党制・政権交代の三題話に収斂する政治評論しかなかった・・(p3、文庫版まえがき。なぜ今、馬場恒吾か―政治評論の復活のために)
この項続く。

ネット報道と新聞との戦い

大治朋子著『アメリカ・メディア・ウォーズ―ジャーナリズムの現在地』(2013年、講談社現代新書)が、興味深かったです。
インターネットの普及でオンライン報道が大きくなり、新聞社の経営を圧迫しています。新聞社は、どのように生き残りをかけているか。大手新聞社(といっても、日本ほど大きくありませんが)が、有料記事との組み合わせ販売などで、ネットとの共存を試みています。他方、地方の小さな新聞社は、地域のニュースに特化し、またライバルである他紙とニュースの共有を試みます。NPOによるニュースや、調査報道の進化も、起きています。興味深い実例が、たくさん載っています。
インターネット報道と新聞との戦いであり、広告収入の奪い合いです。先進地アメリカでの事態は、日本でも早晩起きることでしょう。日本の多くの新聞記者さんは、既に読まれたと思います。
私は、新聞という活字媒体は、なくならないと考えています。ただし、事件の報道だけなら、テレビやネットの方が早く、かつビジュアルです。アメリカの新聞記事を、日本で読むことができるのも、魅力です。
分析という付加価値をつけることが、新聞のそして記者の役目だと思います。