カテゴリー別アーカイブ: 生き方

生き様-生き方

イクメンの勧め

政府でも、男性職員の育児休業の取得を進めています。イクメンの勧めです。「イクメンパスポート」というハンドブックができました。この項目は、内閣人事局の「服務・勤務時間」のページ(の一番下)にあります。男性職員が子育てに参加できるようにするためには、超勤を少なくし、休暇が取れるようにする必要がります。
2人の子育てを、ほぼすべてキョーコさんに任せた我が身としては、発言権は全くありません。今、私にできることは、部下職員が少しでも早く帰宅できるように、仕事を減らし、仕事の段取りをつけることです。
ところで、このハンドブックのp16に、「女性の愛情曲線」が載っています。結婚直後は、夫への愛情がピークになりますが、その後、急速に低下します。子どもができると、子どもへの愛情が急上昇します。しかも、夫の最高値が50%程度なのに、子どもは80%です。
熟年離婚の理由の第1は、「私が一番大変だった育児期に、何も手伝ってくれなかった」だそうです。私を筆頭に、霞が関には、熟年離婚予備軍(有資格者)がたくさんいます。しかしかつては、家庭を顧みずに仕事に打ち込むことが美徳であり、自慢だったのです。

研究者の倫理、阪大医学部長

NHK大阪の14日のニュースで、大阪大学医学部が学生に倫理の教育をしているニュースが出ていました。でも、これって当然ですよね。公務員でも、採用時に公務員法や倫理等を教えます。
ところで、社会の問題に触れながら、内輪ネタが続いて、恐縮ですが。ニュースの最後に、金田安史研究科長(医学部長)が、映像と説明で出ています。奈良女子大附属高校の同級生です。金田君はまじめな優等生で、小生は・・(今のまま)でした。彼は、面影もその当時のままです。同級生から、このニュースを教えてもらいました。

人は信念によって行動するのではなく、行動によって信念を生む

(人は信念によって行動するのではなく、行動によって信念を生む)
宇野重規先生の『民主主義のつくり方』その3。
次のような、プラグマティズムの考えも紹介されています。
人は人生においてしばしば、十分な根拠を持たずに選択をしなければならない。むしろ、真に重要な決断とは、明確な答がないからこそ重要なのかもしれない。
不十分な根拠しかないのに、判断を下さなければならないとしたら、人は自らの信念に依拠するしかない。というよりも、人は行動に駆り立てられて、はじめて自らの信じる理念を見いだすのだろう。
信念を共有しない人々の存在を許さないイデオロギー的対立をいかにして克服するか。62万人もの犠牲者を生んだアメリカ南北戦争を経験した哲学者がたどり着いたのが、このプラグマティズムです。
「答がわからない」ということが、世界観の大前提です。各人の理念を、形而上学的・神学的に正当化することは難しい。ただ、その理念を行動に移し、その結果を見て事後的に評価することだけが可能である(p181以下を要約しました) 。
納得します。人は初めから、統一された哲学や信念をもって、それに従って行動や決断をしているのではありません。日々の行動の積み重ねが、その人の信条体系をつくりあげるのでしょう。
今、あなたが100円持っているとして、それでお菓子を買うのか、街頭募金に寄付するのか、貯金するのか。休日の朝の1時間、寝ているのか、体操をするのか、庭の草取りをするのか。ちょっとした判断ですが、それが積み重なって、あなたの信条体系を作っています。
もちろん、その際には、両親、友人、先生や社会の教え、本を読んで、身につけることも多いです。でも、いくつかある選択肢の中から、一つを選ぶのは本人であり、その結果に責任を負うのも本人です。

天網恢恢疎にして

「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉を、ご存じですか。私は、小学生の時に父親から聞いて、当時は意味はよく分からないままに、頭に残りました。その後、この言葉の意味は学習しましたが、社会人になって、この言葉が使われる場面に、いくつか違った局面があることに気づきました。
1つは、泥棒が、結局は捕まるという、勧善懲悪の場面です。神様は見ているのです。これが原義です。
もう一つは、がんばっている職員が報われず、うまく立ち回っている他の同僚が出世する局面です。この場合は、「神様、真実を見てください」という願望です。
私は、「最後は、神様が見ていてくださる」、あるいは、棺桶に入ったときに、神様に対して、「私は、正しいと思う道を選びました」と申告できるように、この言葉を信じています。(2013年10月2日)

昨日の記事「天網恢々疎にして」について、読者から、次のような便りがありました。
「天網は疏(疎)で、たまに漏らしてくださることもあります。そのおかげで、私は助かっているのかも知れません」と。
なるほど、そのような場合もあるのですね(笑い)。他方で、その網にひっかかって、天を恨んでいる人もおられるのでしょう。

同窓会、大学入学40年

今日は、大学のクラスの同窓会。昭和48年に東大に入学した、文Ⅰ・Ⅱフランス語16組です。50人のうち、25人が出席しました。皆はしばしば集まっているようですが、私は久しぶりの参加です。
40周年ということで、今回は、駒場キャンパス内のフランス料理店でした。しゃれたレストランが、できています。当時は、汚い木造の同窓会館で、すき焼きが定番だったと記憶しています。私は10年前に、ここで客員教授を務め、その後も時々講義に行っていたのですが、何人かの同窓生は卒業以来久しぶりにキャンパスを訪れたとのことで、建物の変わりように驚いていました。
駒場の門をくぐったのは、40年前のことです。田舎から出てきて、それこそ右も左もわかりませんでした。本屋の本棚と古本屋の本棚に並んだたくさんの本を見て、わくわくし、どれだけ読めるのだろうかと期待と心配をしました。20歳で本郷キャンパスに移りました。あれから、さらに約2倍の人生を歩んできました。
それぞれに、歳を取り、恰幅が良くなっています。顔つきが、若き18歳の面影を残しつつ、貫禄ある顔になっています。公務員、弁護士、裁判官、銀行員、大企業の社長や幹部・・。勤めた会社を退職し、第二の人生を歩んでいる人も多いです。
学生たちから見ると、おじさんとおばさんでしょうね。子どもたちは大学を卒業し、孫がいる人も多いのですから。時点を引き戻すと、私たちが18歳の時(昭和48年)に58歳だった人たちは、18歳になったのが昭和8年です。40年とは、そんなに長い年月なのですね。