岡本全勝 のすべての投稿

付き合い、または生き方について

今日は、高校の同窓会関東地区総会に行ってきました。昭和22年卒の先輩から昭和63年卒の後輩まで、といっても70人ほどが集まりました(私は48年卒です)。彫刻家の先輩坂口紀代美さんのスライド付きお話や、ジャズピアニストの後輩安井さち子さんの演奏など、ふだんにない時間を過ごしてきました。
男社会への批判、特に官僚やエリート社員の文化への無理解、それが日本を悪くしていることへの批判に議論が及びました。「社畜」の男性に比べ、女性は元気ですよね。もっとも、これも一般論にしてしまうと、批判が来ますが。「私も、社畜の代表である官僚ですが、フルートやお茶をやってます。もっとも、それでみんなに迷惑をかけています」と言って、許してもらいました。この点については、拙著「新地方自治入門」p322~(私たちの思考の枠組み・生活がつくる思考の型枠)で述べました。
昨夕は、あるホームパーティに招かれて、夫婦でお邪魔しました。そこでは、「現代日本の都会には、社交がない」ということでした。これもまた、仕事をとったら何も残らない男どもへの批判でした。(2004年6月12日)

23日の朝日新聞奈良版「高校人国記・奈良女子大付属」に、小生が出ていました。先輩である中西晴史日本経済新聞編集委員が、知らせてくださいました。生徒会長で制服を自由化したのは、33年も前のことになりました。息子が、当時の私と同じくらいの年ですからね。当時の校長先生は、門脇禎二奈良女子大教授(後に京都府立大教授、日本古代史で有名です。NHKブックス「飛鳥」とか)でした。校長室で議論をした(させていただいた)ことを、覚えています。先生は、「僕は学生服も好きなんだが」とおっしゃいました。小生は、「学生服は廃止しません。自由化だから、好きな人は着てくればいいんです」と答えました。
ある人が、メールをくださいました。「岡本君は、高校生の時は『学生服廃止』を運動し、役人になったら『お仕着せの制服である補助金廃止』と、同じ様なことをいってるのね」。指摘されて気づきました。ハイ。

提言・国家官僚養成2

その1」から続く。
②入省後における国家的視点養成の欠如
採用後は、各セクションで与えられた法律の解釈と実行をこなすばかりなので、省の枠をこえ、日本全体のこと国民のことを考える意識が次第に希薄になり、目の前の仕事しか見えなくなってしまいます。
キャリアアップの時点において、日本全体のことを考える訓練の機会がないうえ、私の入省当時と比べても、現在の若手の方が残業時間の長さ一つをとっても、忙しくなっています。これではますます大局観を養う時間的余裕がありません。
③官僚個人が実名で国の政策を論じ、発言する場が皆無
官僚が活字で政策に関与する機会いえば、白書や法の改正案など、匿名での執筆に限られています。他方、実名の場合は担当している政策の解説にほぼ限定され、局や省を超えた国家のあるべき論を主張できる場、機会、媒体は無きに等しいといっても過言ではありません。
現在、地方公共団体などでは、実名で自由な発言と建設指向を伴う批判の場を提供する機関誌などありますが、少なくとも霞が関にはない。官僚はもっと、恐れず、はばからずに発言すべきです。
このように、入省以前から入省後、そして官僚生活が定着するまで、こうした悪循環が続き、国家全体を考えなくなります。結果として、官僚に対する国民からの信頼は、ますます低下してしまいます。
現在、霞が関には約四万人の官僚がいますが、ほとんど皆が同様の危機感を抱いていると思います。誰もが心のどこかで何とかしなければ、と思っていながら、日々の業務の中でなんともできない、そんなやりきれなさを抱えでいるのではないでしょうか。
思い出すのは今から二十五年前、私が入省したばかりのころ、先輩からこんな謎かけをされました。「岡本君、今の霞が関は江戸末期の幕府官僚似ているだろう」と。
当時の江戸幕府には、門閥などもありましたが、養子縁組もあり、総じて優秀な人材が集い、俊英で構成された一大組織でした。が、その俊英ぞろいが、黒船来航時にあわてふためくだけで、あるいは評定を重ねるだけで有効な対策を打てず、逆に田舎侍と侮っていた薩長に大改革を断行されたわけです。これは、頭の良い人材でもセクショナリズムに凝り固まるほど、時流に即した改革ができない、という例証です。
これを現代に置き換えると、三位一体の改革がその象徴でしょうか。中央集権から地方分権へと構造改革を進めていく過程で、補助金削減については総論賛成各論反対により議論が停滞し、結局地方に改革案の作成をお願いすることになった。とはいえ、地方にできるわけがないと多寡をくくっていたところ、思いもよらず地方が案をまとめてしまった。こういう構図が、幕末のころと不思議なほど重なり合います。
フリー・エージェント制導入で精鋭集団を
現在の閉塞感を改めるには、何より現行の人事・キャリアアップ制度を改める必要があります。各省ごとの人事管理を存続するのであれば、少なくともその上に、各省に属さず、日本全体を考える官僚集団を設定せざるを得ないのではないか。言うなれば1種の上に、「スーパーゼロ種官僚」を置く形です。所属としては内閣官房あるいは内閣府で、各省にも配属されます。
採用後しばらくは基礎教育を施すために、各省に入省させて訓練を積み、各局総務課長くらいになったら、プロ野球選手のようにフリー・エージェント宣言をさせて、出身省庁に残るか内閣に赴くか、本人の意思とやる気に委ねるというのはどうでしょう。各省ごとに現場経験を積んだあと、出身省庁のしがらみから離れ、国家官僚として内閣で国全体の問題を議論し、国の方向性を定める。そういう精鋭集団が、必要となるのではないでしょうか。
今、総理を支えている内閣官房のスタッフも、結局は帰るべき所属省庁があります。それは出向ですから限界がある。将来にわたって国全体を考え、行動する集団を作る必要があるのです。だから、自らの意思で内閣にやってきた精鋭官僚については、退職後の処遇など内閣で引き受けるくらいの度量が必要です。そうすると後顧の憂いなく、むろん出身省庁を気にすることなく、国家全体を考えることができると思います。
私自身、『新地方自治入門-行政の現在と未来』の中で官僚論を書いたり、ホームページを立ち上げて発言の場をこしらえているのですが、それには自分自身の経験が役に立っています。一つは地方自治体(富山県総務部長)に出向し、一つの組織の政策から人事、予算まで、全体を見渡すことができ、かつ責任を持たなければならないという経験をしたことです。もう一つは中央省庁改革本部に在籍し、霞が関すべてを見渡せるポジションで仕事をしたことです。これらの経験が、大変な勉強になりました。
地方では組織運営とはどうあるべきかを学び、改革本部では出身省庁にとらわれず、今後の行政の在り方について考える機会に恵まれました。官僚組織全体のあり方を問う発想、一つの枠を越えて日本社会全体をとらえる目、これらは一つの省庁にとらわれている限り身につきません。
それは官僚個人の潜在能力を考えると、実にもったいない話です。何とか人事制度を改めて国家観を持つ官僚を育て、そして活躍できる場を作るべき。切にそう思います。

 

提言・国家官僚養成

「国家官僚」の養成に向けて、人事制度を改めよ
省庁にとらわれない、「スーパーゼロ種官僚」の創設を
「官僚」の二文字が意味するもの
一人の官僚として、現在の霞が関は、非常に残念な状況です。
日本社会が、ヨーロッパへのキャッチアップを果たし、豊かさを獲得して、新たな社会構造へ方向転換をしようとしています。なのに、最も変化の流れに乗り遅れているのが、官僚機構だと思います。
確かに今までは、中央行政府のもと、官主導で政策を引っ張ってきました。が、現在の転換は、一つは官から民へ、あるいは中央から地方へという流れてありながら、官僚機構とその機構を構成する官僚個々人が、乗り切れていないという状況です。
官僚一人一人については、決して能力が低いわけではありません。むしろ仕組みに問題があると言えるでしょう、ではその問題とは何か。端的に表現すれば、各省もしくは各局ごとの官僚は、各々の持ち場で頑張ってはいるのですが、局や省にとらわれず国家全体を見渡す官僚、すなわち「国家官僚」がいない、同時にその仕組みもない、ということです。この点に、現在の霞が関が陥っている機能不全、地盤沈下、そして国民の期待に応えきれていない原因があると思います。
本来であれば、日本で最も難関の一つである国家公務員試験を突破し、入省後は毎晩遅くまで残業重ねている官僚が集いながら、そのアウトカムにおいて国民の支持を必ずしも得ていない。どんなに個別セクションごとに頑張っていても、全体として国民の求める期待から乖離し、ズレが生じてしまっているのです。
今まで、官僚機構が機能を果たすことができた理由は、まず目標が明確だったこと、そして手法が簡単だったことにほかなりません。目標とは、欧米に追いつき、追い越すこと。手法とは、補助金その他の財源を投じてモノを作ること。すなわち、公共事業やナショナル・ミニマムの行政サービスを提供するといったことなどです。
それを実現するには、各セクションごとの官僚が、己の分野で目指す目標に対し頑張っていけばよいのであり、事実それを実現してきました。近代そして戦後のわが国の行政は、世界でも最も成功したといえるでしょう。明確な目標、潤沢な財源、そして実行にあたる有能な官僚がそろっていましたから。
それが目標を達成したときに、次なる目標に速やかに転換すべきだったのに、組織と人が未だに発展途上国当時の思考にとどまっている。だから現在の問題に対応できなくなっているのです。
確かに、官僚機構というものは、分節化された個別の目標に対処する組織ゆえに、全体的な目標と対応を求めることに、そもそも無理があるのかも知れません。しかしあえて指摘したいのは、「公務員」の三文字が意味する内容は、目標ごとに与えられた仕事を達成する一種の機械的側面があるかも知れませんが、これが「官僚」の二文字になると、それを超えて日本全体を考える役割が求められると思うのです。
そしてわれわれは公務員にして官僚です。むろん、目の前の仕事を粛々とこなすことも必要ですが、日本社会が必要とする変革を見出し、そのために改革を提唱することも、官僚に対する国民の期待です。
そうした創意と創造は、本来政治家の役目かも知れませんが、政治には、国全体の舵取りという、より大きな役目があります。われわれ官僚には、問題の発見と政治が示した方向を具体化するという、実務レベルでの仕事を要求されていると思います。
ですが、現状では日々公務員としての仕事はこなしつつも、官僚としての役割は果たしていると言い難い。これが冒頭の、官僚として非常に残念な状況の背景です。
三つの原因
その原因を分析すると、以下の三点に集約されると思われます。
①大学教育におけるフィールドワークの欠落
国民にとって新しい幸福を追求するための新しい政策を創出する教育を受けていないこと。官僚のほとんどは法学部か経済学部の出身ですが、法学部はできた法律の解釈学に没頭し、経済学部も既存の経済理論を反復するばかりで、何かを造る、生み出すという訓練がなされていません。また、そもそもそのような学部、教育システムがありません。
例えば福祉分野はまさに国全体の大きなテーマですが、実際には地域地域で問題が発生するため、草の根的な視点が求められるわけです。しかし、そうした視点で問題を解決し、対策を講じるというフィールドワークの訓練を受けた経験などありませんから、いざ官僚になっても何をどうしていいかわからない。
何しろ大学時代に習ったことといえば、英語、フランス語、ドイツ語などのヨコ文字をタテ文字に直すことだったのですから。まず官僚になる前の教育段階で、国民の不満を吸い上げ政策に反映させるための理論と実践をまったく学んでいないのです。これが一つ。
その2」に続く。

三位一体改革24

今日から、臨時国会が始まりました。総理の所信表明演説の最初は、「官から民へ」=郵政民営化と、「国から地方へ」=三位一体改革でした。重要課題を抱えることはありがたいことですが、それはそれで大変で・・。(10月12日)
13日の朝刊各紙は、昨日の国と地方との協議会を大きく伝えていました。「各省庁抵抗」「出口見えず」「調整難しく」などなど。当然、予想されたことです。各省が削減案を作れないから、地方団体に案の作成を依頼しました。各省はそれに抵抗するだけでは、調整は不可能です。その事務方の意を受けて大臣が発言すると、もうどうしようもありませんわ。
違う角度から解説していたのは、東京新聞です。
「補助金削減で仕事が消える」。地方団体案を「そのまま受け入れた場合、各省では、削減される補助金担当課はなくなるか、少なくとも今までのような数の職員は不要になる」。わかりやすいですね。各省はなぜ補助金死守で頑張るか。
また、「文部科学省は『義務教育費を全部持っていかれたら、A級官庁からD級官庁に落ちてしまう』との声も漏れる」ともあります。補助金額の多さで、各省のランクが決まると思っているとは・・。それだと、文部科学省でも、その他の局はD級の局と言うことですか。財務省や外務省もD級ですね。
官僚って、この程度の人たちだったのですか・・。同業者として情けないです。地方団体側が「こんな協議を続けても意味がない」と発言する気持ちもわかりますね。新聞各紙が冷静に分析しているのが救いです。
11日の毎日新聞は、「三位一体改革の現場」連載第2回「義務教育、財源より権限求める声も」を書いていました。もちろん、権限の委譲も重要です。でも、それは文部省がもっと手放さないでしょう。二兎を追ってはいけません。先ず財源を貰ってから、次に権限を貰いましょう。(10月13日)
関西学院大学が、「地方交付税発足50年、制度の持続可能性を問う」(10月12日~14日、新宿住友ビル)という講演会をしてくださいます。去年は、小生が出演して「交付税は破綻している」と発言し、物議をかもした会です。(9月28日)
14日の参議院本会議で、小泉総理は「関係閣僚に地方団体の改革案を受け止め積極的に取り組むように指示したが、その明確な指示を勘違いしている閣僚もいるので強くこれからも指示する」と答弁しました(日本経済新聞夕刊)。
総理はここまで明確です。各閣僚の、今後の言動を監視しましょう。(10月14日)
各紙が、昨日の総理発言を解説していました。また、夕刊では、文部大臣が「義務教育補助率削減は考えていない」と発言したことを伝えていました。(10月15日)
17日の日経新聞は、「三位一体改革新たな対立」「都道府県vs市町村」を書いていました。「人口など財政基盤の違いに応じて格差ができる。総じて都道府県が潤い、市町村は減収になるところが多い」とです。
困ったものですねえ、こんな間違った記事を書いて、誘導するのは。
財政基盤に応じて格差がでるのは、事実です。でも、人口は財政基盤ではなく、財政需要の方です。人口が多いほど費用がかかるのです。この点は不勉強。そして、「都道府県が潤い、市町村は減収になるところが多い」は間違いです。都道府県分の補助金廃止に応じて税源移譲を行い、市町村分の補助金廃止に応じて税源移譲を行います。
都会対田舎の地域間対立は生じても、県対市町村という対立は生じません。
さらに「補助金の配分を知事がする」という点は、全くの誤解です。国庫補助金がなくなって、それが県から市町村への補助金になるかのような言い方ですね。
税源移譲の意味がわかっていませんね。あるいは、知っていながら「ある目的のために誘導している」のか。
こうして対立をあおり、改革に抵抗する結果になるのです。というより、県対市町村の対立はないので、「対立を作り上げている」と言う方が正確です。7月7日の神野先生の解説を参照してください。
このような記事は、あたかも事実を報道しているかのようで、実は偏向しています。日経新聞は、三位一体改革に反対ではないと思うのですが。この記者だけが不勉強で、・・(9月17日の解説に続く)。(10月17日)
18日の朝日新聞は、「知事会・市長会が補助金廃止案主導」を解説していました。辻陽明編集委員の書かれる記事と解説は、いつもよく掘り下げてあります。
「これまで地方6団体は、自治省の別働隊とみられてきた。だが、昨年9月からは『国と闘う知事会』の姿勢を強め、総務省の主張とは必ずしも一致していない。総務省幹部は・・・とぼやいた」とかです。これは、「地方6団体の事務総長は自治省の出身」と書いていた、どこかの新聞とは大違いです。
毎日新聞は、「三位一体改革の現場から」連載3で、公共事業を取り上げていました。「省庁、削減案に猛反発。業界も危機感募らす」と。補助金が誰のために役立っているかが、よくわかる記事です。(10月18日)

三位一体改革23

7日の朝日新聞「私の視点」には、梶原拓全国知事会長の「地方分権改革:歴史の大きな分岐点」が載っていました。
読売新聞や毎日新聞には、小泉首相が省庁からの妨害行為について「中央省庁の圧力に地方もおびえちゃだめですよ。しっかりしてもらいたい」と発言したと書いてありました。そのとおりです。「補助金は要らない」と言ったのは、地方団体です。各省が何を言ってきても、「要りません」と言えばいいのです。
地方団体も、個別には、補助金をもらった方が得でしょう。でも、それでは分権はいつまでたっても実現しません。今回は、「やせ我慢の説」で頑張らなければならないのです。ここで妥協すると、各省は「やっぱり地方団体はダメだ」とバカにするでしょう。
7日の日本経済新聞は「列島再編2/3の波紋」連載3で、合併しない町村の、生き残りのための行革事例を紹介していました。
6日の日経は「地域金融は今:変わる自治体との絆」連載5で、公共事業に依存してきた地域経済が「脱公共投資」路線で受ける影響を解説していました。小泉内閣になって、公共事業に頼る景気対策は終了しました。また、公共事業に頼る経済=「モルヒネ経済」も終了したのです。これ以上借金をしてまで、続けることはできません。それでも、巨額の国債・地方債の残高が残っています。(10月7日)
8日の閣僚懇談会で、官房長官から三位一体改革について、次のような発言がありました。
「関係各大臣は地方からの改革案の実現を原則として、そのための取り組みについての現時点における検討状況を具体的に説明していただきたい。仮に地方からの改革案に意見がある場合であっても、その理由を明らかにするとともに、提案されている廃止額に見合う代替案についての考え方を十分に説明していただきたい。」
「地方団体との協議も踏まえた上で、地方からの国庫補助負担金等の改革案について、平成17年度改革分、平成18年度改革分の仕分けを含め、補助事業等の所管府省において検討を進め、その結果を10月28日までに提出していただきたい」
「政府として11月半ばを目途に三位一体の改革の全体像を取りまとめていきたいと考えている。関係各大臣は総理のご指示に沿って地方からの改革案を真摯に受けとめ、改革案の実現に向けて率先して責任を持って全力で取り組んでもらいたい」「なお、地方団体から、補助金等を所管する府省から不当な圧力がある旨の指摘があったので、関係各大臣は十分注意をし、全体像の取りまとめに向けてリーダーシップを発揮していただきたい
8日の読売新聞では、青山彰久記者が「国VS地方」「内閣は省庁依存脱し責任ある対案示せ」を主張しておられました。「地方側は、省の代弁者ではなく、閣僚である大臣と協議したいというわけだ」として、政と官の役割を論じています。ぜひ、ご一読ください。
各大臣にとっては、官僚の書いた紙を読み上げるだけの人(官僚の言いなり)であるか、政治家(自分の意見を持っている)であるかを試される「公開試験」ですね。これからの政治ドラマを、政治部記者と一緒に観戦しましょう。採点表も持って。
官僚に「取り込まれる」政治家がだらしないのか、政治家を取り込む官僚が悪いのでしょうか。地方団体が「要らない」と言っている補助金を「なぜ受け取らないんだ」と言い続ける官僚。歴史の流れや世論の流れに、ここまで抵抗する官僚を見て、悲しくなります。
いずれにしても、国民の官僚に対する信頼は低下するでしょう。「官僚は守旧派」「国民より自分の利益優先」と。有能な官僚は、この事態をわかっていても「中央集権」「個別権限」に固執するのでしょうか。それとも、自分のとっている行動の意味が理解できないほど「無能」なのでしょうか。しょせんは、その程度の集団だったのでしょうか。続きは副業の「時評」インタビューを読んで下さい。(10月9日)
新聞各紙は、各省の抵抗を伝えています。9日の朝日新聞は「官邸指示に省庁抵抗」、日経新聞は「厚労省は健康保険の補助率削減、国交省は交付金化を検討」でした。
補助率削減は、15年末に総理が拒否したものです。交付金化は、税源移譲になりません。いずれも、閣議決定「骨太の方針」に反します。総理が受け入れるはずも、ありません。官僚は、なぜそのような案を検討するのでしょうか。それぐらいしか、智恵がないからでしょうか。
そもそも、「各省の補助金を廃止し、中央集権をやめる」というのが三位一体改革です。各省の抵抗は、「有罪判決を受けた被告」が反論しているようなものです。
地方団体が「要らない」といっている補助金を、押しつけようとするところに、抵抗の「おかしさ」が見えますよね。(10月9日)
11日の朝日新聞社説は、「補助金削減 反対するなら案を出せ」でした。
「各省庁が、地方案を精査し、意見を言うのは当然のことだ。だが、それは三位一体改革を進めるうえで建設的なものでなければならない。補助金を通じて維持してきた自らの事業や権限を守ろうとしたり、自治体に圧力をかけようとしたりすることは論外だ」
「あれほど補助金をほしがった自治体が、もう要らないと言う。補助金を減らしていけば、各省庁とも政策の立案という本来の仕事に取り組みやすくなる。官僚にとっても損はないはずだ」(10月11日)