日本学術振興会(村松岐夫先生ほか)による東日本大震災学術調査プロジェクト「大震災に学ぶ社会科学」の第6回配本、第6巻『復旧・復興へ向かう地域と学校』が発刊されました。
施設や教育活動の復旧だけでなく、次のような新しい視点の論考が載っています。学校、教育委員会という閉じた世界でなく、地域やNPOとの協働が重要な視点となっています。
第5章 原発事故対応における学校への影響
第6章 NPOによる子ども支援活動
第7章 被災した子どもの教育支援
第8章 子ども支援と心のケア
第9章 教員の業務と健康状態への影響調査
第10章 官民協働が可能にした学習機会の保障
投稿者アーカイブ:岡本全勝
ダイビング友の会。平成27年の回顧、その1
さて、今日は29日。年賀状は既に出し終え、門の松飾りも付けました。大晦日に、今年1年の回顧を書く予定ですが、今日はその前段として、今年の事件を書きます。
12月1日に、国会前の横断歩道で、道路に向かってダイビングを試み、顔から着地しました。夕方5時半ごろで、飲んでもいません。信号が青に変わったので、リズムよく歩道を走り、90度曲がったところで、体が宙を舞いました。何が起こったかわからないままに、アスファルトにたたきつけられました。右の眼鏡が割れ、ほほから少し血が出ています。どうやら、イチョウの濡れ落ち葉で滑ったようです。高校生の時にゴールキーパーをしていたので、セービングをして着地するのは得意なのですが、受け身をする間もありませんでした。
翌日、右目の周りが紫色に内出血し、パンチを食らったボクサー状態になりました。眼鏡のレンズが、激しく当たったのでしょう。キョーコさんに資生堂の化粧品を塗ってもらい、惨状を隠しました。良くできたもので、ほとんど気がつかないくらい、消してくれます。「そうか。女性は毎日、こうして化けているのか」ということが、よくわかりました。内出血は、消えるのに、3週間かかりました。
行きつけの東眼科で見てもらったところ、眼球には何の異常もなし。ボルサリーノの帽子のつばが破れ、眼鏡が壊れただけで、体や衣服は何ともなかったようです。受け身をしていたら、コートは破れ、手もすりむいていたはずです。顔から着地したことが、よくわかります。
眼鏡は、縁なしなのでレンズを取り替えるだけすみました。といっても、高いレンズですが。眼鏡屋さん曰く、「チタンの丈夫なツルだったので、よかったのかも。普通の眼鏡なら、ツルが曲がって、顔に突き刺さっていたでしょう」と。ボルサリーノは、銀座ヴォーグの原さんに見てもらい、傷のか所を少しわかりにくくしてもらいました。まあ、長く使ったので、そんなにもったいなくはありません。遊びの際にかぶりますわ。帽子と眼鏡が、体を守ってくれたのです。運がよかったと思いましょう。革靴は滑りますね。いくつかの靴底は、滑り止めを貼ってもらいました。
家族や職員からは、「その年になって、走らないように」と忠告を受けました。そうですね、時々階段などで、足先がつっかえることがあります。思ったようには、足が上がっていないのでしょう。神様が、大けがをする前に、注意をしてくださったと思いましょう。その点でも、運がよかったのです。何事も、よい方向で考えましょう。
さて、表題の「ダイビング友の会」についてです。この話をしたら、私の周りに、地上でダイビングをした人が何人もいました。以下、列挙します。
1 40代男性。小走りに走っていて、足を滑らせ、道路でダイビング。肋骨にひびが入りました。手をポケットに入れていたので、被害が大きかったようです。私の事件の数週間前のできごとだそうです。
2 50代男性。4年ほど前。電車に乗ろうとしてドアのところで足がつっかえ、電車の床にダイビング。額を10針ほど縫ったとのこと。
3 40代男性。ホテルに帰って、ベッドに身を投げ出したつもりが、床にダイビング。3か月ほど、手をつっていました。
4 30代男性。日比谷公園の柵を越えたら、足が引っかかったらしく、地面にダイビング。前歯2本を折りました。
番外 20代女性。私の事件を聞いて笑ったあと、電車とプラットフォームの隙間に落ち、足をすりむきました。これは、真下に落ちたので、ダイビングとは認定せず。
このうち3人は、民間人です。このほかに海に潜って写真を撮る、本当のダイビングをする知人も、2人いるのですが。
仕事納め
今日は12月28日、役所では仕事納めです。といっても、特別な行事はありません。先週、職員たちに「年休を取りなさい」と申し渡し、私もお休みをいただく予定にしていたのですが。机の上の資料が片付かず、仕方なく出勤。
すると、職員の「ちょっと良いですか」攻撃に遭い、年末の挨拶に来てくれる元部下たち(官民)がいて、さらには記者さんの挨拶兼取材があって・・・。なかなか、自分の時間は取れませんね。
明るい公務員講座、7
連載「明るい公務員講座」第7回が発行されました。今回は「読んでもらえる文章とは」です。下手な文章は、読んでいて途中で嫌になります。「あんた、この文章で何を言いたいの?」と。あなたが一生懸命考えた文書でも、上司に読んでもらえなかったら、また住民に通じなかったら、意味がありません。
読みやすい文章のコツを7点、指摘してあります。そんなに難しいことではありません。今回も、よい例と悪い例を書いてあります。参考にしてください。内容は次の通り。読みやすい文章、役人言葉を使わない、別添資料の作り方、目次を付ける、決裁文書は保存を考える。
さて、年内の発行はこれで終わり、次回掲載は新年1月25日号になります。編集の都合だそうです。原稿はあと3回分を出してあるので、2月上旬まで一安心。冬休み中に、次の原稿を考えます。
蘇我氏と藤原氏
倉本一宏著『蘇我氏―古代豪族の興亡』(2015年、中公新書)が、興味深かったです。蘇我馬子が権勢をふるい、蝦夷と入鹿が大化の改新で滅ぼされたことは、皆さん学校で習いましたよね。
しかし、この本によると、大化の改新後も、蘇我氏は有力豪族として生き残ったのです。改新後、蘇我倉山田石川麻呂が力を持ったことは知っていましたが、本宗家が滅んだあとも、別家が力を持ちます。天皇家は引き続き、蘇我氏と姻戚関係にあり、多くの皇子が蘇我氏の血を引き継いでいます。天皇家も、それを意識した婚姻を続けます。それだけ、蘇我氏の地位は高かったのです。それに反発したのが、蘇我氏の血の入っていない中大兄皇子です。
奈良時代に入っても、蘇我氏の血を引く多くの皇子がいました。しかし、その地位を藤原氏に奪われてしまします。天皇家との婚姻による権力者の地位を、藤原氏が引き継ぐのです。ただし、藤原氏にも蘇我氏の血は入っています。藤原不比等の妻に蘇我氏の娘が入っていて、武智麻呂、房前、宇合を生みます。そして、房前の藤原北家が最も栄えます。没落した蘇我氏は、平安時代にどうなったのか。この本をお読みください。
私の生まれ育った明日香村大字岡は、入鹿が首をはねられた板葺宮跡があり、発掘されて公園になっています。私は、ここでカエルを捕っていました。小学校の隣には、馬子の墓といわれる石舞台古墳があり、その上に登って紙飛行機を飛ばしていました。大きな石組みですが、東側(羨道から見て右側)から登ると、簡単でした。現在は、石の上に登ることは禁止されています。