古くなりましたが、8月8日の読売新聞一面「地球を読む」は、山崎正和さんの「報道の電子化」でした。報道の電子化によって、アメリカで新聞社が倒産、廃刊に追い込まれていることを、憂慮しておられます。
・・報道も出版も同じことだが、その最大の使命は情報を評価することであり、責任を持って選択した情報を世間に伝えることである。そのために新聞社も出版社も一定の権威を許されるべきであり、その権威を守るために社会の支援が与えられなければならない。
近代、権威主義への抵抗は時代の流行になったが、すべての権威がなくなれば文明は成り立たない。医療、教育、政治、法曹などどの分野を見てもわかるが、権威とは知的な分業のための社会制度である。これらの分野で誰が信頼できるかを、個人がいちいち事実に即して判断しようとすれば、頭に何万冊の人物興信録をつめこんでもまにあわない。
この選択を容易にするために国家は資格制度を設けているし、世間は評判というかたちで信頼の手引きをつくってきた。だが国家には腐敗の恐れもあるし、世間の評判には無責任に揺れ動く危険がある。そこで近代文明が発明したのが、ジャーナリズムであって、それ自体が権威である複数の新聞や雑誌が、情報を評価し取捨選択するという仕掛けであった・・
電子情報の氾濫が教えたのは、無限に多い情報は情報ではないという発見であった。また情報の価値付けについては、自然淘汰の法則は働かないばかりか、むしろ悪貨が良貨を駆逐するという現実であった。
今日の新聞の役割は社会的権威の是非はもちろん、日々の事件についてもその重要性を判別し、多忙な現代人が最低限でも知るべき情報を限定することだろう。専門分化の進む社会の中で、万人が共有すべき知識を選別することである。啓蒙とはいわないまでも、注意喚起が新聞の使命であり、そのためには熟達のプロが必要なのはいうまでもない。
出版も同じであって、編集者の仕事はまず筆者を選ぶことであり、原稿の主題と文体を評価することである。時流に反した言い方だが、言論の自由とは誰でも好きなことを好きなように書く自由ではない。電子出版はそれを可能にしたようだが、これは議長のいない大衆討議のようなものであって、言論が言論を打ち消しあう効果を招くだけだろう。出版社とプロの編集者は、真に自由で上質な言論の関守としてこそ不可欠なのである・・
いつもながら、鋭い見方ですね。