尊厳を保てる処遇に

10月12日の朝日新聞オピニオン欄、小熊英二・慶応大学教授の「良き統治のために」から。

・・・よい統治とは何か。それは当該社会の構成員が幸福を追求する条件を整えることだ。
では幸福とは何か。古代ギリシャ哲学では、人間の幸福は「善くあること」だと考えられていた。各自に役割があり、人として認められ、健康に日々の仕事をしている状態だ。現代日本語なら「みんなに居場所がある」「誰もが一人前と認められる」「各人の尊厳が保たれている」にあたるだろう。
こうした幸福は英語では「ウェルビーイング」と訳される。「善く(well)ある(being)」という意味だ。それは「楽しい」「おいしい」などの瞬間的な喜びを指す「ハッピネス」と区別される。
よき統治(グッドガバナンス)とは構成員がこうした意味での幸福を追求する条件を整えることである。企業組織なら「よき統治」は、構成員がそれぞれ適切な役割を果たせるように組織を運営することだ。国の場合はさまざまな政策、たとえば雇用や教育機会の確保、個々人が尊厳を維持するに足る生活保障、経済活動や言論の自由、差別や独占を禁ずるルール設定などが具体的方法になる。
では現代日本で「よき統治」を実現するために解決すべき課題は何か。私見を述べてみたい。

・・・欧米では失業問題の解決を、誰もが役割のある社会を実現する重要課題とみなすことが多い。望んでも職がない社会は、誰もが役割のある社会とは言えないからだ。
だが日本では、失業がそうした問題として論じられることは少ない。なぜなら日本では、低賃金の非正規雇用なら職はあるからだ。だが日本は欧米諸国より正規と非正規の差が激しいので、それでは生活ができず「一人前」と認められない。これは単に所得の問題だけではなく、人間の尊厳が保てないという問題でもある。
これは女性の地位にも関わる。日本女性の労働参加率は、実はアメリカやフランスより高い。だが働く女性の半数以上は非正規である。しかも正規で働く女性は20代後半をピークに直線的に減少し、代わりに非正規が年齢とともに増える。つまり出産などで退職すると非正規の職しかない傾向がある。一定年齢以上で正規雇用の女性が少ないので、管理職に占める女性の比率も低い・・・

・・・正規雇用は減っていないが、これは昔も今も全就業者(自営業部門含む)の半数強にすぎない。残り約45%は自営業と非正規で、そのなかで自営業が減少し非正規が増えた。また正規でも中小企業なら必ずしも賃金は高くない。
そしていまの非正規労働者や中小企業労働者は、自営開業するために腕を磨く仕事をしているとは言いがたい人も多い。開業しても自営業そのものが危機的である。その状態で低賃金なら、人間として「善くある」という実感を持つのは困難だ。それが就業者の半数近い社会は「よき統治」が実現しているとはいえない。
こうした状態は、生まれる子供の半数近くが、将来は尊厳を維持できそうもない社会であることを意味する。少子化も当然だろう・・・
・・・また日本型の正規雇用は半ば必然的に雇用調整の可能な非正規労働者を必要とする。そのため正規雇用の増加は重要な措置ではあっても、全体をカバーするのは難しい。もちろん、人種や民族の誇りという形で尊厳を回復しようとするのは、一時の気休めにしかならず論外の選択である。
そうなると当面は非正規雇用の待遇改善が重要な選択肢である。その方法については専門家の意見も分かれており、私には回答は出せない。ここでは議論の喚起のため、私見を述べるにとどめたい。
まず最低賃金の引き上げは必須だと思う。これには中小企業主の反対もあるが、私の意見では、生きていけない賃金で人を雇うのは尊厳と人権の侵害である。個別には家計補助のために低賃金で働きたい人は現在もいるが、そうした世帯条件を前提にした賃金を公的な基準とするべきではない・・・