年別アーカイブ:2026年

連載「公共を創る」第246回

2026年1月15日   岡本全勝

連載「公共を創る 新たな行政の役割」の第246回「政府の役割の再定義ー「自ら考え自ら行う」自治体への転換」が発行されました。地域での大きな課題である、人口減少と活力低下について議論しています。これまで、国による国土政策とともに、地方自治体での独自の取り組みとそれを支援する政策の流れがありました。後者の始まりとなった、ふるさと創生事業について説明しています。

私は1990年から、当時の自治省財政局交付税課長補佐として、その算定に携わりました。
それまでの交付税の算定の哲学は、全国「一律」の行政サービスを保障するというものだったのに対し、一連のふるさと創生事業は各自治体が知恵を出した「個性」を支援するものです。地方交付税制度と算定の担当者として、それまでは「どの自治体でも同一の行政サービスを提供できるようにするのが地方交付税の役割」と教えられ、そのように説明していました。ところが、ふるさと創生事業によって、「自治体の創意工夫を応援する」「自治体間に差をつける」ことになり、どのように説明したら良いのか悩みました。学者の方々の知恵も借りて、地方交付税の「哲学の変更」をすることにしました。

今では隔世の感がありますが、国の指示を実行することに慣れていた地方自治体が、自ら地域の振興を考えることは、当時としては画期的なことでした。
それまでの地方行政は、全国どの自治体でも同じような行政サービスを実施できるように、国が基準を決め、国庫補助金と地方交付税とでその実施を担保していたのです。そして、経済発展の果実である税収を財源にして、それに成功しました。経済格差によって財政力に大きな違いがある地方自治体間で同じ行政ができるようにしたことは、世界でも先駆的で素晴らしいことでした。
しかしそれはまた、地方自治体が国の指示に沿って動くことを「制度化」してしまいました。それは固定観念となって、国民の多くがそれを疑わなかったのです。その結果、「自治体」と呼ばれつつ、その自由度は限られていました。

ふるさと創生事業を実施して、見えてきた問題もありました。ふるさと創生1億円事業は、各自治体が1億円を何に使うか、それぞれに知恵を出さなければならなかったのですが、そのような経験がない自治体にとっては難しいことでした。「お金がないから、自由な事業ができない」と言っていたのですが、突然、財源をもらっても、どのように使えばいいか分からなかったのです。
経験とともに不足していたのが、人材でした。それは、地域で地域おこしの中心となる人材と、その活動を誘導し吸い上げる行政側の自治体職員です。

政治を動かす大衆、希望から不安へ

2026年1月15日   岡本全勝

2025年11月23日の読売新聞[あすへの考]、フランシス・ヴォルフ氏の「ナショナリズム過熱の脅威」から。気になったところを紹介します。

・・・私見では、西洋で近年、政治を動かしているのは大衆の抱く「不安」です。衰退の不安、アイデンティティー(自己同一性・帰属意識)喪失の不安、グローバル化の不安、他者に対する不安――。
19世紀半ばから21世紀初頭まで西洋の大衆が抱いていた感情は「希望」でした。「明日は今日より素晴らしい」というのはマルクス主義の歴史観でもある。子は親よりも良い暮らしが望めた。ところが2000年代後半以降、希望は不安に取って代わられた。

欧米でナショナリズムが大衆の不安を糧に勢いを増している。16年の英国の国民投票を通じた欧州連合(EU)離脱決定と米国第一主義のドナルド・トランプ氏の米大統領初当選はその表れです。大戦後、ナショナリズムの超克を期して欧州統合を主導してきた独仏両国でも「反欧州」を叫ぶ右翼政党が伸長している。大衆はナショナリズムという空間に「避難先」を見いだしているかのようです。
欧米で左翼の取り組む「アイデンティティー政治」も問題です。左翼は伝統的に人権や基本的自由に普遍性を認め、植民地主義に対抗し、男性支配を批判し、女性解放を擁護してきた。しかし近年は大衆の不安を前にして、人間は個々の人種・性別・性的指向・信仰で定義されるべきだと説いている。人と人を結びつける普遍性ではなく、人と人を隔てる個体性を優先している。これが私の分析です。
右翼はナショナリズムに拘泥し、左翼はアイデンティティーに固執する。二つの現象は、実は一つのことを意味しています。「人間は皆、同じ価値を持ち、万人は平等だ」という普遍性の否定です。

世界で民主主義が退潮しています。振り返れば、民主主義の高揚期は1970年代半ばの南欧の民政移管、80年代半ばの南米の軍事独裁の終焉、89年の東西冷戦構造崩壊に伴う東欧の民主化、91年のソ連解体などで刻まれた、20年に満たない期間でした。
20世紀の民主主義の危機は主に軍事クーデターでした。21世紀の危機の特徴は「非民主的な指導者が民主的に選出され、民主主義を攻撃する」ことです。ブラジルのボルソナロ前大統領、ハンガリーのオルバン首相が該当しますが、代表例はトランプ米大統領です。自分は国民に選ばれた以上、言論・出版の自由や司法の独立を含む基本的自由に介入する正当性があると確信しているかのようです。
選挙は民主主義の重要な柱ですが、より重要なのは基本的自由の擁護です。米国で基本的自由が脅かされています。
世間に満ちているのはSNSなどで拡散された感情です。冷静で論理的・科学的な理性は顧みられない。民主主義をもたらした啓蒙主義が危ういのです・・・

内包と外延、行政と行政学について

2026年1月14日   岡本全勝

連載「公共を創る」第244回で、これからの地方自治体の在り方を考える際には、役所そのものを対象としているだけでは不十分で、地域の状態とその中での役所の役割を対象としなければならないと主張しました。その違いを「内包と外延」と表現しました。この言葉は数学や哲学で使われるですが、私は「内容を深掘りすること」と「周囲を見渡して置かれた立場を考えること」として使っています。これについては、「内包と外延、ものの分析」「その2」として書いたことがあります。今回は、行政を見る際に使ったのです。

役所の仕事を効率化することは、内容を深掘りすることです。それはそれで重要ですが、効率化の末に住民の期待に応えていないのなら、それは目的をはき違えています。置かれた立場、役所の役割を考慮しなければなりません。
公務員も学者も、その点を十分認識していなかったのではないでしょうか。行政学で行政機構を詳しく分析することは必要ですが、役所に何が求められているのか、外部の要素と主体(政治、社会、住民、民間組織など)との関係や、対応しなければならない課題を抜きに行政機構を分析しているだけでは、住民の期待に応えられません。教科書では、個別分野の政策を扱うものもありますが、このような視点ではまだ十分とは思えないのです。それは、政治学にも言えることです。

なぜ、今になってそれが問題になるのかは、第243回で述べました。地域社会が大きく変化し、役所に求められることが変わったからです。
日本が発展していた時期には、役所は増大する人口と生活水準の向上にあわせて、行政サービスを提供し、その質量の拡大をしていれば、住民の期待に応えることができました。ところが高齢化と人口減少が進むと、雇用の場がなくなり、各種のサービスが提供されなくなって、暮らしにくい地域が出てきたのです。そこでは、市町村役場が良い行政サービスを提供しているつもりでも、人びとは便利に暮らしていくことができません。ここに、外延を考える必要性が出てくるのです。

「外延を考える」といっても、外部の環境や外部主体との関係を分析するだけではありません。行政や政治が、何と「戦う」のかです。行政も政治も、社会の問題を解決し、住みやすい国や地域を作ることが役割です。その視点がない学問や分析は物足りないのです。「実用の学と説明の学」「文系の発想、理系の発想

大学で行政学を学んで以来、実務の場で行政学を考えてきました。若いときは、従事した地方交付税と地方財政を通じて、日本の行政を分析していました。本も書きました。しかしある段階で、これ以上深掘りしても、効果・意義は少ないのではないかと悩んでいました。その回答が、これです。

ワーク・ライフ・バランスの移行期

2026年1月14日   岡本全勝

2025年11月9日の朝日新聞、「「全員が猛烈に働く」文化、脱する道は ワーク・ライフ・バランスの現在地 濱口桂一郎氏に聞く」から。

―高市氏の発言をきっかけに「ワーク・ライフ・バランス」に注目が集まりました。
「ワーク・ライフ・バランス」って、実は変な言葉ですよね。この言葉は「ワーク」と「ライフ」が対立を起こしているというイメージを与えます。
でも家事や育児が「アンペイドワーク(無償労働)」と言われるように、「ライフ」は「ワーク」でもあります。同時に、「ワーク」とされるものは「職業生活」という「ライフ」でもある。

―仕事を制限すれば、やはりペナルティーがあります。
ワークの世界は、ライフの領域の責任が希薄な人たちを前提にできています。だから育児で仕事を制限する働き方が、「マミートラック」という揶揄するような言葉で表現される。でも私は、「マミートラック」の価値が見直されてもいいと考えています。

―どういうことですか。
日本企業は全員が「頑張って働く」ことが当たり前とされていますが、世界的に見れば異例です。諸外国では、少数のエリートは厳しい要求に応える、大多数のノンエリートは与えられた水準の仕事をクリアするだけというのが一般的です。
新幹線で「グリーン車に乗るのが当たり前」なのが日本企業です。それ以外はデッキで立たされる非正規雇用。でも本当は、多くの人は一応座れる自由席でいいはずですよね。この自由席が「マミートラック」とされる働き方です。現状はグリーン車が「ノーマルトラック」になっています。

―なぜそうなったのでしょうか。
戦後の平等主義の中で、エリートとノンエリートの格差がなくなったからです。全ての社員が猛烈に働く文化を作り、正社員であれば平等に扱われる。一概に悪いとは言えません。私は「ガンバリズムの平等主義」と呼んでいます。
でもこれは「がんばれる人の平等」です。がんばれるかどうかは個人の問題ではなく、夜中まで働いている時に子どもの面倒を見ている「銃後の守り」があるからがんばれる。この前提を無視して、そこに女性を投げ込んで、さあ活躍しなさいと競争させられたらしんどいですよね。

―人事考課が「ガンバリズムの平等主義」を補強していませんか?
1990年ごろから「欧米はもっと厳しくやっている」という大きな誤解とセットで、ヒラ社員にも「目標に向かってがんばれ」という評価制度が広がりました。現実は逆で、諸外国ではヒラ社員の評価なんてないのが当たり前です。

―あまり希望が見いだせないですね。
社会全体で見ると、今は移行期なのだと思います。男女ともに「転勤がある仕事は絶対にいやだ」というような考え方が広がっている若い世代と、中高年層との感覚の違いが表面化しています。世代交代によって変化は生まれるでしょう。
もう一つ必要なのは、「ガンバリズム」的な働き方に「ついていけない」「嫌だ」という人たちを振り落とさない形で、「がんばる人」をどう選ぶか考えることです。しかし、「社会は平等になった」と感じている人たちにとっては不愉快な話でもあり、納得できるかどうか。難しいかもしれませんね。

コメントライナー寄稿第26回

2026年1月13日   岡本全勝

時事通信社「コメントライナー」への寄稿、第26回「省庁再編から25年 これまでとこれから」が1月5日に配信され、1月13日のiJAMPにも転載されました。
2001年1月6日に新府省が発足してから、ちょうど25年が経ちます。私は、省庁再編を実施するために内閣に置かれた中央省庁等改革推進本部で参事官を務め、組織の減量を担当しました。あれから四半世紀が経ちました

省庁の再編は、23あった府省庁を13にほぼ半減するものでした。大胆な改革でしたが、再編後は大きな変化なく現在に至っています。府省については、防衛庁が防衛省に昇格し、大臣が置かれるものとして復興庁とデジタル庁が設置されました。府省に置かれる庁や局・統括官などについては、多くの再編が行われています。課題の変化と新しい事務を飲み込みつつ、総数は大きく増やさず柔軟に対応しているようです。

内閣機能の強化の面では、予想を超えて内閣官房が膨張しました。国家安全保障局、内閣人事局などが新設され、首相や官房長官が主宰する本部や会議は88にもなっています。職員定数も大きく増えました。首相指示の政策の企画と、各省にまたがる案件の調整が増えているからでしょう。性格上、内閣官房をどのように組織し運用するかは、官邸主導の在り方と連動した課題でしょう。

もう一度、省庁再編を行おうという議論は少ないようです。省庁の再編は、各府省の機能をどのように括るかの議論です。それだけならばあまり意義はありません。議論するなら、どのような哲学で行うかが論点です。
私は、「生活者省」を設置すべきだと考えています。明治以来、政府は産業振興と公共サービス提供を任務として、省庁の多くが生産者と提供者側に立っていました。しかしその使命を終え、政府の役割は国民生活の安全と安心に重点が移っています。消費者庁、こども家庭庁、内閣府男女共同参画局、内閣府政策統括官(共生・共助担当)、厚生労働省社会・援護局など、これらの部局を集めて一つの省にするのです。そして、政府の使命を明らかにするのです。