9月3日の朝日新聞オピニオン欄、野田秀樹さんの「AI時代に「考える」」から。
――10年ほど前、野田さんが「人が何かを受け止める順番は『感じる・考える・信じる』のはずなのに、最近は『考える』が抜け落ちて、『感じる・信じる』が直結しているのではないか」と指摘したことが強く印象に残っています。
「私なかなか良いことを言いましたね。考えることが面倒なのか、手続きとして重要でないと思っているのか、ますます『感じる・信じる』になってきている気がします。SNSで見たことがすぐに信念になる、みたいなことも起きていますし」
――野田さん自身は、「感性」が当時のキーワードだった1970年代後半から80年代にかけて「若者演劇の旗手」として注目されましたが。
「当時はフィーリングとか言って、『感じる』が重視されていましたが、私はそれが気持ち悪かった。それでも演劇で『考える』を前面に出さなかったのは、60~70年代の学生運動を少し下の世代として見ていて、考え過ぎた人たちの不幸を目の当たりにしたことが大きかったからだと思います」
「既成の権威への反発は若さの特権で、それは今も変わらない。若い人口が多かったこともあり、大きな連帯が生まれ、世界を変えられるのではないかという夢があった。自分の思いもそちら側にありました。でも、72年、『あさま山荘事件』が起き、直後に連合赤軍内での残忍な内ゲバ殺人が明らかになった。これは絶対ついていけないと思った。それを上の世代がきちんと総括していないことに不信感も募った。この体験はその後、自分が理想について考えるのに影響していると思います」・・・
・・・「生まれる50年前にあった日露戦争を、私は身近に感じたことはない。今の若い人にとって第2次大戦は同じくらい遠いでしょう。かつてのように、伝えよう、教えようとするのは難しいと思います」
「ただ、歴史を知らないことは危うい。この前の参議院選挙で、独自の憲法構想案を作っている党が議席を増やしましたが、書かれていることを見ると、主権とは何か理解しているのか、疑わしいですよね。そこを考えずに、党の主張の中でいいなと感じる『部分』だけ見て投票した人も多いでしょう」
――「部分」はSNSで広がりやすいですし。
「短歌や俳句のように言葉をそぎ落とす文芸は別ですが、普通、何かを伝える文章には、ある程度の長さと、考えるための時間が必要です。思いつきで書く百数十字で何が言えるんだ?と思いますね。オールドメディア対SNSで、SNSが優位みたいな切り口になってるけれど、それも大ざっぱ過ぎる。オールドって言った時点で、そっちがダメって感じになるじゃないですか。フェイク情報や悪意をまき散らす場合、そのSは『social(社会の)』ではなく『stupid(愚かな)』だとはっきり言った方がいい」