明文化されていない規則に縛られる

9月11日の朝日新聞オピニオン欄「「ルール守れ」に縛られ」から。
・・・法律や規則、明文化されていないマナーまで、社会には様々なルールが存在する。大事だと分かっていても、「ルールを守れ」の声に息苦しさを覚えることも。その背景を考えてみる・・・

住吉雅美・青山学院大学教授の「攻撃、嫉妬と不公平感から」
・・・ルールとは本来、集団生活の中で秩序を守るためのものであるべきで、個人を殺すものであってはなりません。ですが、日本社会では人を攻撃する道具のように使われることがあり、個人がルールにがんじがらめにされてしまっています。

慣習、モラル、エチケットなど、ルールにはさまざまなものがあります。最も権威があるルールとして思い浮かべるのは法律でしょう。国家権力によって強制され、改廃したり違反などをめぐる争いを解決したりする権限が誰にあるのか、明確に定められている。ただ、法律も長い時間をかけて培われた社会の慣習やモラルが下地になっており、数あるルールの中の一つにすぎないとも言えます。

日本の特徴は「法律未満」のルールの拘束力が非常に強いことです。明文化されていないものも多く、そもそも誰が何のためにそのルールを作ったのか分からなかったり、強制力が一律ではなかったりするため、ルールの解釈や違反をめぐる争いが起きたり、恣意的に適用されたりするややこしさがあります。
例えば、コロナ禍で政府はマスク着用を義務付けてはいなかったのに、着けていない人を責める「マスク警察」が現れました。公共施設などでは、やらないで欲しいことを伝えるために「お控えください」といったあいまいな表現がよく使われます。それでもほとんどの人が従っている。不倫した有名人が、再起不能になるほどバッシングされるのは当たり前の光景になりました。要請やモラルが社会の同調圧力によって強い縛りとして広まり、時に法律以上に厳しいまなざしが向けられています。

厳しさの背景には、嫉妬と不公平感があると私は考えています。「自分は守っているのに」「自分は我慢しているのに」という思いが、逸脱者への攻撃という形で強い制裁になっている。SNSでは、実は少数の執拗なネットユーザーに起因するという説があるものの、「自分こそが正しい」とばかりに「ルールを守れ」という側の声があふれ、異論を差し挟めない状況に陥っています・・・