8月23日の朝日新聞「“I”をください」「有森裕子さんに聞く 重圧かけた末の「自分をほめたい」」から。この言葉は、私も使わせてもらっています。でも、「自分で自分をほめてあげたい」ではなかったのですね。しかも、しょっちゅう使っています。
「自分で自分をほめたい」。1996年のアトランタ五輪女子マラソンで銅メダルを獲得した有森裕子さんの言葉。「自分」を大切にすることを推奨する最近の世の中にあふれる言説の先駆けともいえそうだ。言葉に込めた意味、自己肯定感に時に振り回される風潮について、現在は日本陸上連盟副会長などを務める有森さんに聞いた。
「自分で自分をほめたい」は、インタビュー中に自分に言って自分で納得するための言葉でした。誰かに何かを伝えようとしたものではないですが、皆さんの視点を少しでも変える言葉であったならよかったです。
バルセロナ五輪(92年)で銀メダルを取ったものの、その後の環境がなかなか自分の思い描いたようにならず、身体的にも精神的にも傷を負いました。このモヤモヤを抱えては生きていけない、でもSNSもない当時はアスリートが何かを主張するにはメダリストに返り咲くしかない。そうやって自分で自分に重圧をかけた末で、同じメダルでもバルセロナとアトランタでは意味合いが全然違ったんです。
ただ勘違いされている方が多いですが、私は「自分で自分をほめてあげたい」とは言っていません。自分に対して何かを「してあげる」なんて言い方、しないです。誤解が広まったのも、たぶん「自分をほめたい」は日本人の感覚の言葉じゃないんでしょうね。仏教圏の慈悲文化と、キリスト教圏の奉仕文化の違いがありそうです。
あの言葉の元になったのは私が高校生の時に聞いたフォークシンガーの高石ともやさんの「自分のことを分かっているのは自分自身だから、他人にほめてもらうんじゃなくて、まず自分で自分をほめることが大事だよ」という言葉です。高石さんが米国でボランティア活動中に、現地の年配女性から聞いた言葉だそうです。日本だと「ほめたい」はずうずうしく、他人に施す「あげたい」が自然なのでしょう。
でも多くの人が本心では自分を認めたいと思っているから、私の言葉は新鮮に受け止めてもらえたのだと思います。自分へのご褒美的な意味に転じて「ほめてあげたい」で広まったのかもしれません。
アトランタ以降に「自分で自分をほめたい」と思ったことはありません。あんな出来事は一生に1回。こんな言葉をしょっちゅう使っていたら、単なるなまけものになっちゃいます。日常にゴールはなく、強烈な刺激もありませんから。
そこまで思うことはなくても、今の仕事の中で一生懸命に頑張る人を応援している時に充実感があります。自己肯定感と言われますが、私は根本は自分の存在意義だと思います。人間が一番必要とするものです。