年別アーカイブ:2021年

連載「公共を創る」執筆状況報告

2021年10月5日   岡本全勝

恒例の、連載「公共を創る 新たな行政の役割」の執筆状況報告です。
紙面では「第4章政府の役割再考」の「1社会の変化」が続いていますが、これが10月21日で終わります。執筆の方は、「2社会と政府」に入りました。

そのうち「(1)社会を支える民間」の前半を書き上げ、右筆たちの厳しい指摘を反映して、編集長に提出しました。編集長に誌面の形にしてもらったら、3回分、10月28日号から11月18日号までになりました。

このように書くと、余裕があるように見えますが、10月中には、続きを数回分書き上げなければなりません。すでに着手はしているのですが。常に締めきりに追われる、自転車操業です。精神衛生上、よくありませんね。2か月分くらい貯金していると、もう少し余裕が出るのですが。

今回は、「社会を支える企業」「変わる企業の社会的役割」についてです。これまでに各章で書いた話もたくさんあり、それらを含めて整理しました。
社会の変化によって、これまでの教科書的説明が役に立たなくなっています。それを説明したいのです。

手帳の使い方

2021年10月5日   岡本全勝

9月28日の日経新聞夕刊「ビズワザ」は「仕事に役立つ手帳選び」でした。パソコンやスマートフォンで、日程を管理する人も増えています。他方で、手書きの手帳派も根強いそうです。日程管理だけでなく、頭の整理や日々の記録に活用するためだそうです。活用法は、この記事を読んでください。

私は、大まかな行動予定は、電子メールで秘書やキョーコさんに毎週伝えます。変更があった場合に加筆が簡単で、そして共有するのが簡単です。
他方で、日程管理は、手帳でやっています。これは、長年の習慣です。スマホでもできるのでしょうが(私はスマホを持たないのでだめですが)。手書きで書き込むことで覚える、1週間が一覧で見ることができるなどが、私に合っています。

そして、手帳派の多くの人と同様に、何をしたかの記録も書き込んでいます。「手帳は予定を書くもので、日記は過去を記すもの」とは、加藤秀俊先生の言葉です。
私は日記帳を持たないので、手帳が日記代わりです。書斎には、結構昔のものから残っています。今後、見ることはないのでしょうが。このホームページも記録なのですが、何をしたかは詳しくは書いていません。人様に見せるのは恥ずかしいこともあるので。

もう一つ、しなければならないことの計画管理は、1枚の罫紙に書き出します。仕事関係、講演会の予定、執筆の予定、その他の雑件です。これを毎週のように書き換え、何をしなければならないか、どれを優先するかを考えます。日程管理と業務管理は別物だと、『明るい公務員講座』にも書きました。
この作業は手で書くことで、仕事の優先順位、それぞれの仕事の進め方、かかるであろう時間を考えることにつながります。どこで、執筆の時間を確保するかもです。これが、手帳や日程管理表ではできないのです。

メルケル首相評伝

2021年10月4日   岡本全勝

マリオン・ ヴァン・ランテルゲム著『アンゲラ・メルケル: 東ドイツの物理学者がヨーロッパの母になるまで』(2021年、東京書籍)を読みました。フランス人ジャーナリストによる、メルケル首相の評伝です。フランス人から見たメルケル首相、その生い立ちから、政治家としての経歴をたどります。

当時の東ドイツは、社会主義という名の下の独裁国家、市民が秘密警察の手下となり、お互いに密告し合う社会です。しかも、危険視される宗教の牧師の娘として成長します。それが、彼女のよく考えてからものを言う性格をつくります。
頭のよい科学者だった女性が、東ドイツ崩壊に遭遇し、政党で働くことを選びます。そこからは、あれよあれよという間に、出世街道を駆け上り、野党党首、そして首相へ、さらに4期16年という長期政権を維持します。国民支持率は、50%を切ったことがないそうです。

冷戦終結、ドイツ統一という「時」もありました。東ドイツ出身で女性を求めていたコール首相の目にかなったという「地」もありました。しかし、それだけでは首相にはなれません。西ドイツの男社会であるCDU(ドイツキリスト教民主同盟)の中で、権力をつかんでいくのですから。この本では、育ての親のコール首相を葬ることをしたことを、説明しています。コール党首時代のCDUに醜聞が出たときに、新聞に意見を公表することによってです。

翻訳も良く、わかりやすい内容です。ただし、分量が少ないこともあり、彼女の政治の手法や政策の評価については、あまり書かれていません。ドイツ(西ドイツ)の首相は比較的在任期間が長いのですが、16年間も維持するにはそれだけの理由が必要です。これは、別の本を読まなければならないのでしょう。
私が若いときに読んだ世界のリーダーは、チャーチル、ルーズベルト、ドゴール、ケネディたちでした。その次は、ジスカールデスタン、シュミットでしょうか。近年だと、サッチャー、ゴルバチョフ、ブレア、そしてメルケルでしょう。

世論による政治の危うさ

2021年10月4日   岡本全勝

9月25日の朝日新聞オピニオン欄、佐伯啓思・京都大学名誉教授の「国民主権の危うさ」から。原文をお読みください。

・・・私は、「民主主義の根本原理は国民主権にあり」というこの疑い得ない命題に対して、ずっとある疑いの念を持ってきた。いやもう少し正確に述べれば、この根本原則の解釈の仕方についてである・・・
・・・端的にいえば、世論は、安定した常識に支えられた「パブリック・オピニオン」であることはまれで、しばしば、その時々の情緒や社会の雰囲気(つまり「空気」)に左右される「マス・センティメント」へと流されるのである。そして、この不安定な「世論」が国民の意志つまり「民意」とみなされ、その結果、民主主義は世論による政治ということになる。
議院内閣制とは、まさにこの意味での国民主権の民主主義を部分的に抑制しようとするものであった。たとえば、英国人にとって英国の政治体制は何かと問えば、主権者は王であり、政治体制は議会主義だと答えるであろう。議会での討論こそが決定的な意味をもっており、民主主義はせいぜい選挙制度のうちに組み込まれている・・・

・・・では「国民主権としての民主主義」とは異なった民主主義の理解はありえないのだろうか。ありうる。というより、実にシンプルなもので、それはあくまで政治的意思決定のプロセスとして民主主義を理解することだ。「手続きとしての民主主義」である。論議を尽くしたうえでの投票による意思決定という手続きである。
そしてある程度有意味な議論が可能となるためには、限定された代表者による集会が不可欠になろう。これが議会主義であり、代表者を選ぶのが普通選挙であって、この手続き全体の妥当性が民主主義と呼ばれるものなのである。
議会主義にせよ、議院内閣制にせよ、こういう発想に基づくものであった。したがって、議院内閣制は、あくまで、民意や世論という「主権」からは距離をとるものであり、そこにこそ、「手続きとしての民主主義」の意味がある。

デモクラシー、つまり「民衆(デモス)の支配(クラティア)」は日本では「民主主義」と訳され、「主義」としての思想的な意義を与えられてきた。それは、ひとつの理念であり理想を実現する運動であった。この運動の目指すところは「民意の実現」にあった。だから、政治がうまくいかないのは、政治が民意を無視しているからだ、ということになる。いいかえれば、民意を実現しさえすれば政治はうまくゆく、という。こういう理解がいつのまにか定着してしまった。
私にはとてもそうだとは思えない。今日の政治の混迷は、将来へ向けた日本の方向がまったく見えないからである。将来像についてのある程度の共通了解が国民の間にあればよいが、それがまったく失われている。しかもそれは、どうやら日本だけのことではない。グローバリズム、経済成長主義、覇権安定による国際秩序、経済と環境の両立、リベラルな正義などといった従来の価値観や方法が、世界中でもはや信頼を失っている。

むろんそんな大問題について「民意」がそれなりの答えを出せるはずもない。だから目先の、被害者や加害者が分かりやすい、しかも「民意」がすぐに反応しやすい論点へと政治は流されてゆく。
福沢流にいえば、将来を見渡せる大きな文明論が必要なのであり、それを行うのは学者、すなわちジャーナリズムも含めた知識人層の課題であろう。福沢は、この知識人層が大衆世論(社会の空気)に迎合していることを強く難じた。知識人層は、民意の動きを読み、同調するのではなく、逆にそれに抗しつつ、それを動かしてゆくものだ、というのである。150年前の福沢の主張は、今日ますます新たな意味を持っているのではなかろうか・・・