9月8日の朝日新聞オピニオン欄、渡辺努・東京大学大学院教授の「値上げ嫌いこそ元凶」から。
「経済の体温計」といわれる物価が動いていない。その原因を多くの経済学者が探ってきたが、いまだに正解が定まらない。日本の物価研究の第一人者、渡辺努さんは、わずかな値上げすら受け入れない私たちの心理こそが「主犯」とみる。この20年間、「止まったまま」だという日本経済を動かすには何が必要なのかを聞いた。
――日本の物価はなぜいつまでも上がらないのでしょうか。
「たとえば、身近な理美容サービスやクリーニング料金は、2000年ごろから価格が全く動いていません。これは消費者の根底に『1円でも余計に払いたくない』という心理があるからです」
「企業は原材料の価格が高くなったり、円安で輸入コストが上がったりすれば、商品の価格に上乗せしたいと考えます。でも消費者にアンケートすると、いつもの店でいつもの商品を買おうとして少しでも価格が上がっていれば、『ほかの店に行く』と答える傾向が顕著です。欧米の主要国で同じ質問をすると、消費者の過半は同じ店で買い続けると答えます。日本では企業は顧客離れを恐れ、価格を据え置かざるを得ない」
――値上げを受け入れない心理はどう生まれたのですか。
「1995年ごろまでの日本は、年3%ぐらいの商品の値上げは普通でした。90年代末の金融危機のころから消費が急速に冷え込んだため、企業の間で価格据え置きの動きが広がりました。同じことは働く人の賃金にも言え、ほとんど上がらなくなりました」
「問題はその後です。銀行の不良債権問題が次第に片付いて経済が立ち直る過程でも、価格の据え置きが続いたのです」
――物価が上がりにくいのは、先進国に共通の悩みでした。
「確かに米国も欧州も全体でみた物価は上がりにくくはなりました。しかし、一つひとつの商品の値段はそれなりに上下に動いており、メリハリがある。一方、日本では一つひとつの値段がほとんど動かない。経済が止まっているようなものです」
――日本の消費者は飛び抜けてケチだ、ということですか。
「あまりにも長期間価格が動かないのを見せすぎたせいで、物価とはそんなものだと思い込んだ消費者が多いのでしょう。ある食品メーカーの社長は、海外の取引先はコスト上昇分の価格転嫁を受け入れてくれるのに、日本の流通大手は正当な理由を説明しても納得してくれないと嘆いていました」
「私も理不尽だと思いますよ。1円だって上がるのもイヤだというほど、あなたは貧乏なんですか、と消費者に尋ねてみたくなります。少なくとも平均的な年収があれば容認できるはずなのに、それでもイヤだというのですから」
――ただ、賃金も物価と同じように動かないのなら、ある種の均衡状態ではありませんか。
「確かに均衡状態なのですが、それではまずいんです。たとえば、ピザ屋が設備投資をして良い窯を入れ、工夫しておいしいピザをつくろうとしたとします。しかし、ライバルと横並びの値段でないと消費者は買わないから、設備投資の元が取れません」
「企業は、値上げが一切できないことを前提に活動しなければならない。コスト削減に追われて、賃金を上げている場合ではない。商品の開発も、設備投資も、技術革新も、前向きな動きがすべて止まっている。それがこの20年間の日本経済の姿なのです」
――生産性が低いことが問題の根本にあるのでは。
「日本の生産性は低く、上げる努力は必要だと思いますよ。でも、私が強調したいのは、仮に生産性が上がらなくても、賃金も物価も上げられるということです。どこかの会社で賃金が上がり、それを払うために商品を値上げする。購買力を維持するために、ほかの企業の賃金も上がる。そして、それらの企業の商品の価格も上がる。みんなの賃金と物価が並列的に年2%上がっていく状態を指して、世界の中央銀行は『インフレターゲット』と呼んでいるわけです」
――問題が「心理」にあるのなら、変えるのは難しそうです。
「日本では圧倒的多数の人々が今の物価のままでいいと思っています。コロナ危機が去ったらなんとかしようという機運は、政治家にも日銀にもない。どこかの企業が頑張って賃金を上げても、それが物価に跳ね返らないと、連鎖はそこで止まり、他の人の賃金に及んでいかない」
「誰かから安く買うということは、そこの労働者の賃金も低く抑えられるということです。安いことはまずい、という認識がまず広がらなければいけません。要は『気の持ちよう』なので、生産性を上げたり、労働市場の慣行を変えたりといった難題に比べれば、むしろ易しいはずです」