8月21日の朝日新聞オピニオン欄「過去の背負い方」、瀧川裕英・法哲学者の「責任果たす行為の難しさ」から。
・・・過去の悪事が免責されることはあるのでしょうか。法の世界には時効という制度もありますが、私たちが広く社会的責任について考える際に大事なのは、時の経過それ自体が何かを免責するわけではないということです。人が積み上げる行為こそが、その人を過去の悪事と切り離す。つまり責任を果たす行為によって過去は遠くなるのです。
ただ実際には、過去の責任を果たすことは非常に難しい行為でもあります。過去におかしたことは変えられない以上、できることは限られている。私たちにできるのはせいぜい、過去に自分がしたことの持つ「意味」を事後的に変えるだけかもしれません・・・
・・・では、社会に求められることは何でしょう。まず、責任が果たされていないときには、過去のその行為は悪いことであり、責任を果たすべきだと繰り返し宣明していくことだと思います。被害者を社会的に承認する作業です。
もう一つは、過去に区切りをつけて未来へ歩みを進めるためにはどうしたらいいかを考えることでしょう。責任をどう有限化するか、です。
過去の行為を許すことは、被害者にとっても意味がないわけではありません。加害者を許さない状態では、現在をうまく生きることができず、それは結局「自分」を許さないことにつながりうる。適切に区切りをつけられれば、未来への歩みを始められます。
私たちが責任について考え続けるしかない理由の一つは、責任の果たし方について決定をしなければならないからです。今回の「辞任ドミノ」でいえば、なぜ一方が辞任で他方は解任なのか。決定が適切に模索され、決定の理由がきちんと説明される。そのような議論の積み重ねが必要なのだと思います・・・
参考「責任の取り方」
ところで、肝冷斎が、プロ野球、中田選手の暴行事件について、鋭い指摘をしています。暴行事件を起こし、日本ハム球団で出場停止になったのに、読売球団に移籍したらすぐに公式戦に出場していることについてです。