朝日新聞ウエブサイト「貧困を見せ物に? 炎上した釜ケ崎のPR、背景には何が」(7月8日掲載)から。参考「ドヤ街」
・・・6月上旬、大阪市南部の新今宮駅。構内の階段を下りて駅の南側に出ると、雨にぬれた釜ケ崎の街があった。
身一つでやって来ても、日雇いの仕事があり、簡易宿泊所で安く寝泊まりができる。様々な事情を抱えてたどり着く人たちも懐深く受け入れてきた街だ。1966年、行政によって「あいりん地区」と呼ばれるようになった一方で、釜ケ崎という通称も使われ続けている。
白波瀬准教授が釜ケ崎の現地調査を始めたのは、2003年。当時の新今宮駅前には「野宿者が暮らすブルーシートの小屋が、びっしりと立ち並んでいました」と振りかえる。
バブル崩壊後、建設現場での日雇いの仕事が激減。90年代後半には、野宿者があいりん地区だけで千人に達したというが、いまは小ぎれいなホテルなどが建ち、駅前に当時の面影はない。
厚生労働省が2000年代に2度の通知を出し、生活保護を受けられるようになった野宿者の多くが、簡易宿泊所を転用した福祉アパートなどに移っていったのだという・・・
・・・白波瀬准教授は「釜ケ崎は高度成長期からバブル期まで、日本経済に欠かせない労働力の供給地でした。大阪万博の会場や瀬戸大橋の建設で活躍したのも、日雇い労働者たちです。ただ、労働力を送り出す役割は以前に比べると小さくなっています」と説明する。
同センターによると、日雇い(現金)求人の年間累計は、バブル期の89年にはピークの約187万人を記録したが、90年代後半には100万人を割り込むようになり、19年には約25万人にまで減少した。
背景には求人方法の多様化や、労働者たちの高齢化があるという。
センターを出て釜ケ崎の中心部を歩くと、「福祉の方歓迎します」といった看板を掲げたアパートが目に入る。高齢化で生活保護を受給する労働者が増加。それを受けて、労働者向けの簡易宿泊所を、生活保護受給者向けのアパートに転用する例が目立つという。
白波瀬准教授は「かつては日雇いの仕事を求めて来る人が目立ちましたが、いまは主に支援を要する人たちが街に流入しています。釜ケ崎は『労働者の街』から『福祉の街』に変わったとも言われます」。
生活保護の受給(保護)率は、西成区が23・00%(19年度平均)。そのうち、あいりん地区は約40%に達する。全国平均の1・64%、大阪市の4・95%(いずれも20年3月)と比べて高い水準が続く・・・