国家と市民との関係、欧米と日本の違い

6月26日の朝日新聞オピニオン欄、佐伯啓思先生の「対コロナ戦争」から。
・・・この1年半、私の印象に残ったことのひとつは、この事態に対する日本と欧米の反応の相違であった。都市のロックダウンや違反者への制裁なども含む強力な措置をとった欧米に対して、日本の「自粛要請」はかなり際立った対照を示していた。専門家の見解を聞き、世論に配慮し、経済界の意向を確かめ、国会で野党と論議をし、その上で「緊急事態宣言」を出す、というのが日本政府の対応である。しかもほぼ強制力を伴わない自粛の要請である・・・
・・・通常の場合には、政府の強権を批判し、個人の権利を強く唱える野党や多くのメディアが、今回のような「緊急の状態」を前にして、政府の「中途半端さ」を批判し、断固たる態度を取れと訴える。では、欧米のような強力な私権制限の権力を政府に与えるべきだというのかと思えば、そうではない。有効な対案は出てこない。私はあまり政治的な色分けは好まないが、便宜的にいえば、いわゆる「リベラル系」の政府批判にこの傾向を強く感じた・・・

・・・こういうところに、欧米の国家観もしくは「国家」と「市民」の関係が典型的に示されているように思われる。たとえば、西洋近代社会の思想的基礎を与えたとされ、日本でも一時期は戦後民主主義のバイブルのようにもみなされたルソーの社会契約論をみてみよう。彼はいう。自然状態では、人々は様々な意味で生命の危機にさらされる。そこで、ある契約を行って自らの生命を共同で防衛すべく社会を作った。それは、個人の自由がより高度の次元で実現できるような契約社会である。ということは、この社会が何らかの脅威に晒された場合、人々は、自らの生命・財産をこの社会に全て委ねて社会の共同防衛にあたらなければならない。ここに政治共同体としての国家が作られるが、国家とは、まずは生命や財産を共同で防衛する共同体なのである。

ルソーの社会契約論は西洋思想の中でも特異なものであり、歴史的にこのような契約などどこにもなかったが、それでもこの思想は、西洋における「国家」と「市民」の関係を典型的に示す論理となっている。市民は私的な権利を持つ。そのことは法的にも保障される。しかしその法を確保するために人々は共同で国家を創りだした。つまり政治的共同体を創出し、自らをそこに投げ入れた。したがって市民と国家の関係は二重になっている。一方で、市民の私的権利は国家の干渉から守られなければならない。しかし他方で、この国家(共同社会)の秩序が危機にさらされた時には、市民は最大限の公共精神を発揮して国家のために役立たなければならない・・・

・・・先に、私は、日本の「自粛要請」と欧米の「国家の強権」を対比したが、この「対比」の背後にある違いを見据えることは大事なことだと思う。善かれ悪しかれ、日本には、西洋の歴史伝統が生み出した国家意識はない。それはまた市民意識の欠落をも意味している。人間に脅威を与える「自然」との対決において「国家」という政治共同体を理解するような考えは日本にはまずない。国家という政治共同体は、日本ではほとんど自生的に生まれ、いつもそこにあるもので、それが「自然」との対決で作り出されたという意識はほとんどない。「自然」との対決とは西洋流にいえば「戦争」である。自然災害も、感染症も、他国の侵略も共同社会への脅威であり、それは「戦争」なのである・・・
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