賢人の知恵、離れて見る

5月4日の朝日新聞、デイビッド・ブルックスさん(ニューヨークタイムズ)の「賢人が持つもの 自己を引いて見つめる力」から。
ブランダイス大学社会学教授モリー・シュワルツ氏と、かつての教え子ミッチ・アルボムと対話、『モリー先生との火曜日』について。ちなみに同書は、1500万部以上売れたそうです。

・・・シュワルツ氏の鋭い洞察に目を向けると、実はそれほど特別なことは言っていない。「できることもできないことも素直に受け入れよ」。シュワルツ氏が素晴らしかったのは、注意力の質だった。私たちはみんな、今を生きるべきで、瞬間の充足感を味わうべきだと知っている。だがシュワルツ氏は、それを実行できる人だった・・・
・・・私が実際に出会った賢人たちも、みんな似ている。人生を変えるような言葉を発するのではなく、他人をどのように受け入れるかが大事なのだ。知恵といえば、人里離れた所にいる近寄りがたい年老いた賢者を思い浮かべることが多い・・・しかし、私が体験したのは、知識体系よりも、人との向き合い方だった。秘密の情報を授けてくれることよりも、自分自身で気づきが得られるようにしむけてくれるような関わり方なのである。

知恵は、知識とは違う。フランスの思想家モンテーニュは、他人の知識で物知りにはなれるが、他人の知恵で賢者になることはできないと指摘した。知恵には、具現化した道徳的要素が含まれる。自分自身がもがき苦しんだ経験から、他者の弱さに対する思いやりある配慮が生まれる。
賢人は、何をすべきか教えるのではなく、物語を見つめることから始める。私たちの話や理屈を聞き、価値のある苦闘をしている存在として見てくれる。私たちの心の内側と、自分では見えない外部からの両方の視点から見る。私たちが「親密」と「自立」、「管理」と「不確実性」といった人生の弁証法的問題にどう取り組んでいるかを見て、現状が長く続く成長における一つの地点であることを理解してくれる・・・

・・・人は、自分が理解されたと感じて初めて変わることができる。本当に信頼でき、知恵を求める相手は、賢人よりも編集者に似ている。彼らはあなたの物語を理解し、あなたが過去と未来との関係を変えられるように再考を促す。あなたが本当に望むものは何か、あるいはどのような重荷をおろしたいと思っているのか、などを明らかにしようとする。そして、あなたがその人に相談した表面的な問題の根底に横たわる、深い問題を探るのだ。
自分自身の結論へと歩む、巧みで忍耐強いプロセスこそが知恵と感じられるものだ。おそらく、だからアリストテレスは倫理を「社会的行為」と呼んだのだろう。

結果として得られる知識は個人的であり、文脈的だ。一般論ではなく、名言集に載るような格言でもない。このような視点に立てば、プレッシャーから自由になり、自分が置かれている状況から少し距離をとり、希望を持てるようになる。
シュワルツ氏のような賢人が感銘を与えるのは、沈着冷静ですばらしい自己認識をもっているからだろう。彼らは他者を観察することでそれを身に付けたのではないだろうか。他人のために判断を下す方が、自分のために何かを決めるより簡単だ。賢人は、第三者として考えるスキルを身に付けて、鏡にうつる自分という相手にそれを適用しているのかもしれない。たぶん、自己認識とは、内面での熟考ではなく、自分のことを誰かほかの人のように見ることで大部分ができているのではないか・・・