官僚の役割、アイデアと実現。佐々江・元外務次官

11月14日の朝日新聞オピニオン欄は、「日韓 和解の誓い道半ば」でした。
内容は、1998年の日韓共同宣言。当時、それぞれの外交当局の担当課長として宣言づくりにあたった佐々江賢一郎さんと朴チュ雨(パクチュヌ)さんとの対談です。内容は、原文をお読み頂くとして。私は、官僚の先輩である佐々江・元外務次官の行動と発言に関心を持ちました。

・・・――歴史的な日韓共同宣言は、どんな背景から生まれたのでしょう。
朴 金大中(キムデジュン)大統領の就任前年の1997年から、韓日間では漁業協定の改定が最大の懸案でした。そして98年1月、日本政府が協定の破棄を通告したため断絶状態に陥った。韓国はそれでなくてもアジア通貨危機で大混乱していました。そんな中、当時の小倉和夫・駐韓大使から韓日間で共同宣言を作ってみてはどうかというアイデアを聞いた。韓国はそれまで、二国間の本格的な共同宣言を作った経験がありませんでした。
98年2月、金大統領の就任式に外務省の北東アジア課長だった佐々江さんが来たので、3日間、一緒に食事をしながら話し合いました。ただ、韓国としては協定を破棄した日本から先に何か措置をとってほしいと考えていました。その後、外相会談などがありました。

――実際に宣言を作ろうと提案したのはどちらですか。
佐々江 考え方は日本から示したと思うけど、最初は確か韓国から……。
朴 98年6月の局長会議で私たちが最初の案を出しました。
佐々江 我々からすると、とても案とは言えない内容でしたが(笑)。でも、それに一心不乱に手を入れました。日韓の政治、経済、安全保障、文化といった関係に加え、地域やグローバルな問題など包括的に考えました。それと過去だけではなく現在の関係にも光をあて、両国がどういう方向に進むのか、いかに手を携えていくのかという大きなコンセプトで。
朴 8月末に日本案が出てきた後、韓国側の意見も加えました。金大統領は就任前から日本とは過去を乗り越え、未来志向的な関係を構築すべきだと繰り返し語っていた。だから私たちも自信をもって、大統領に韓日関係発展のための報告書を何回も出しました・・・

次のような発言も。
・・・――お二人とも現役の外交官を退かれましたが、今の後輩たちに思うところはありますか。
朴 気の毒ですね。韓国も日本も、外交に関する権限が低くなっている時代。韓国の外交官にはもっと大きい視点で地域全体を見て、日本との協力関係を築いてほしい。
佐々江 私は日本外務省の士気が下がっているとは思いません。外交は外務省が独占してやるのではなく、いろんな力の結集で成り立つべきです。外交官は自ら蓄積した知見を政府内にも外にも堂々と伝えていく。それがプロの意識だと思います。

――共同宣言が今も注目されるのは、その意義もさることながら政治の関係がうまくいっていない証拠でもあります。
佐々江 日韓関係において、政治指導者の役割は極めて大きい。特に韓国では指導者の言動が国民感情に影響を与えます。要はお互い何を譲れないか、何が違うのか、双方が理解することが大切なんです。違いから出発しないといけない。
朴 真の和解にはまだ遠い。似た者同士だけど、ずいぶん違いもあるんですよ、韓日は・・・