三谷太一郎著『日本の近代とは何であったか』(2017年、岩波新書)のあとがきに、次のような文章が書かれています。
・・・私はこれまで、いつのころから、学問人生の中の「青春期の学問」に対する「老年期の学問」の意味を考えてきました。多くの場合、学問の成果(特に目立つ学問の成果)は、「青春期の学問」の成果であり、「老年期の学問」の成果と目すべき実例は、ほとんど念頭に浮かんできませんでした・・・
・・・「老年期の学問」は、所詮「青春期の学問」の可能性の範囲を超えるものではない。それぞれの「青春期の学問」が持っていた可能性を限界にまで追求することによってしか、「老年期の学問」は成り立たない。結局「青春期の学問」のあり方が「老年期の学問」のあり方を決定する。それが私の結論です。・・・
・・・ただ「老年期の学問」は、どちらかといえば、特殊なテーマに焦点を絞る各論的なレベルの発展よりも、より一般的なテーマに傾斜した総論的なレベルの発展に力点を置くべきではないかと考えます・・・
詳しくは、本を読んでいただくとして。納得します。
春から慶應大学に教えに行きますが、行くことが決まってから、どのように授業を構成するかを考えてきました。かつて東大の大学院や慶應大学で教えていたときは、当時の私の問題意識と周りにある実務の実例やデータを教えることに重点を置きました。しかし、この歳になって、またいろいろなことを経験して、それとは違うことを教えるべきだと思うようになりました。
もちろん大学の授業ですから、知っておかなければならない事項を、教えなければなりません。でも、それは、市販されている教科書に書かれています。私が「付加価値」をつけるとするなら、これまでの経験を生かして、現場の実態を教えるとともに、地方自治を通じて「社会の見方」をお教えすることでしょう。
いま、そのような観点から、講義ノートを作成中です。