意見が違う者の間の同調と理解

平田オリザ著『わかり合えないことから―コミュニケーション能力とは何か』(2012年、講談社現代新書)を読みました。表題にあるように、最近コミュニケーション能力が求められるけれども、わかり合うとはそんなに簡単なことではないことが、書かれています。
私流に理解すると、次のような主張です。
100人いれば、100人それぞれ考え方に違いがあります。いえ、2人でも、考え方が違います。夫婦の間ですら、嗜好に違いがあるのですから。洋食が好きか、和食が好きかとか。
その違いを無視して、相手のことをすべて理解しようとするのは、無理です。すべて理解する、あるいは理解してもらうのは、相手またはその集団に「同一化」「同調」することです。かつての、日本のムラ社会や会社への同調です。自己主張を殺して、大勢に従います。あるいは、奥さんの言うことに異論を唱えず、「服従すること」です(笑い)。
中高年の管理職が若者に求めるコミュニケーション能力は、実は「俺が言わなくても察してくれよ」「場の空気を読んで、反対意見を言うなよ」という、組織への同調です。意見が異なるものの間での、コミュニケーションではありません。
平田さんの主張に関しては、このHPでも取り上げました。「会話と対話と論戦と」(2012年7月14日の記事)。

私が考えるコミュニケーション能力とは、まず、自分の考えや好き嫌いを発言することです。黙っていて、「察してくれ」は、永年一緒に暮らしている夫婦でも難しい場合があります。次に、相手の主張を聞くことです。それを聞かずに、先回りして準備しても、間違っている場合があります。そしてお互いの意見を言い合った後、ここは同意するが、そこは同意できないということを、お互いに認識することでしょう。その後に、どちらの主張に合わせるかは、力関係によって決まります。会社では、部下は上司の意見に従い(いやなら辞める)、夫婦の場合は、夫が妻に従います。通常は。