24日の朝日新聞変転経済は、「95年、日米摩擦解消の切り札、トヨタの海外生産」「国際プラン準備しています」でした。生産台数世界一になったトヨタ自動車の、海外生産への転身についてです。
1960~70年代は貿易と資本の自由化を迫られ、1985年のプラザ合意で円高が加速しました。1990年代の日米通商摩擦と超円高(1ドル=80円にもなりました)という逆風を乗り越えたのは、海外生産の加速でした。
興味深いインタビューが載っています。日米自動車協議の担当だった、渡辺修通産省機械情報産業局長が、次のように述べておられます。
「・・以前の日米交渉では、通産省が早く妥協しようとして業界にずいぶん無理をしてもらった。数字はビジネスの結果として出てくるものだが、部品購入の数値目標はあらかじめ約束させるもの。政府が受け入れれば、業界に再び無理をお願いすることになる。それはやめようという原則を貫きました。答は、民間にしか出せなかったのです・・」
次のようなくだりもあります。
・・約4千人いた本社事務部門の社員の2割を、中長期の経営課題などに対応するチームの専従者として引き抜いた。残りの8割で従来の業務をこなし、事務の合理化も進める・・
これを2人の有力副社長が、後押しした。1人は財務・経営企画担当の奥田碩で、「変えろ、変えろ。何も変えないやつが一番悪いとゲキを飛ばし続けた。もう1人は人事担当の磯村巌。仕事が増えることをいやがる既存組織の抵抗を見て、全部長を集めて「これはやるんだ」と厳命した。「お前が引き抜かれるかもしれんぞ」と一喝した・・