「その1」から続く。
②入省後における国家的視点養成の欠如
採用後は、各セクションで与えられた法律の解釈と実行をこなすばかりなので、省の枠をこえ、日本全体のこと国民のことを考える意識が次第に希薄になり、目の前の仕事しか見えなくなってしまいます。
キャリアアップの時点において、日本全体のことを考える訓練の機会がないうえ、私の入省当時と比べても、現在の若手の方が残業時間の長さ一つをとっても、忙しくなっています。これではますます大局観を養う時間的余裕がありません。
③官僚個人が実名で国の政策を論じ、発言する場が皆無
官僚が活字で政策に関与する機会いえば、白書や法の改正案など、匿名での執筆に限られています。他方、実名の場合は担当している政策の解説にほぼ限定され、局や省を超えた国家のあるべき論を主張できる場、機会、媒体は無きに等しいといっても過言ではありません。
現在、地方公共団体などでは、実名で自由な発言と建設指向を伴う批判の場を提供する機関誌などありますが、少なくとも霞が関にはない。官僚はもっと、恐れず、はばからずに発言すべきです。
このように、入省以前から入省後、そして官僚生活が定着するまで、こうした悪循環が続き、国家全体を考えなくなります。結果として、官僚に対する国民からの信頼は、ますます低下してしまいます。
現在、霞が関には約四万人の官僚がいますが、ほとんど皆が同様の危機感を抱いていると思います。誰もが心のどこかで何とかしなければ、と思っていながら、日々の業務の中でなんともできない、そんなやりきれなさを抱えでいるのではないでしょうか。
思い出すのは今から二十五年前、私が入省したばかりのころ、先輩からこんな謎かけをされました。「岡本君、今の霞が関は江戸末期の幕府官僚似ているだろう」と。
当時の江戸幕府には、門閥などもありましたが、養子縁組もあり、総じて優秀な人材が集い、俊英で構成された一大組織でした。が、その俊英ぞろいが、黒船来航時にあわてふためくだけで、あるいは評定を重ねるだけで有効な対策を打てず、逆に田舎侍と侮っていた薩長に大改革を断行されたわけです。これは、頭の良い人材でもセクショナリズムに凝り固まるほど、時流に即した改革ができない、という例証です。
これを現代に置き換えると、三位一体の改革がその象徴でしょうか。中央集権から地方分権へと構造改革を進めていく過程で、補助金削減については総論賛成各論反対により議論が停滞し、結局地方に改革案の作成をお願いすることになった。とはいえ、地方にできるわけがないと多寡をくくっていたところ、思いもよらず地方が案をまとめてしまった。こういう構図が、幕末のころと不思議なほど重なり合います。
フリー・エージェント制導入で精鋭集団を
現在の閉塞感を改めるには、何より現行の人事・キャリアアップ制度を改める必要があります。各省ごとの人事管理を存続するのであれば、少なくともその上に、各省に属さず、日本全体を考える官僚集団を設定せざるを得ないのではないか。言うなれば1種の上に、「スーパーゼロ種官僚」を置く形です。所属としては内閣官房あるいは内閣府で、各省にも配属されます。
採用後しばらくは基礎教育を施すために、各省に入省させて訓練を積み、各局総務課長くらいになったら、プロ野球選手のようにフリー・エージェント宣言をさせて、出身省庁に残るか内閣に赴くか、本人の意思とやる気に委ねるというのはどうでしょう。各省ごとに現場経験を積んだあと、出身省庁のしがらみから離れ、国家官僚として内閣で国全体の問題を議論し、国の方向性を定める。そういう精鋭集団が、必要となるのではないでしょうか。
今、総理を支えている内閣官房のスタッフも、結局は帰るべき所属省庁があります。それは出向ですから限界がある。将来にわたって国全体を考え、行動する集団を作る必要があるのです。だから、自らの意思で内閣にやってきた精鋭官僚については、退職後の処遇など内閣で引き受けるくらいの度量が必要です。そうすると後顧の憂いなく、むろん出身省庁を気にすることなく、国家全体を考えることができると思います。
私自身、『新地方自治入門-行政の現在と未来』の中で官僚論を書いたり、ホームページを立ち上げて発言の場をこしらえているのですが、それには自分自身の経験が役に立っています。一つは地方自治体(富山県総務部長)に出向し、一つの組織の政策から人事、予算まで、全体を見渡すことができ、かつ責任を持たなければならないという経験をしたことです。もう一つは中央省庁改革本部に在籍し、霞が関すべてを見渡せるポジションで仕事をしたことです。これらの経験が、大変な勉強になりました。
地方では組織運営とはどうあるべきかを学び、改革本部では出身省庁にとらわれず、今後の行政の在り方について考える機会に恵まれました。官僚組織全体のあり方を問う発想、一つの枠を越えて日本社会全体をとらえる目、これらは一つの省庁にとらわれている限り身につきません。
それは官僚個人の潜在能力を考えると、実にもったいない話です。何とか人事制度を改めて国家観を持つ官僚を育て、そして活躍できる場を作るべき。切にそう思います。