8月18、19日と全国知事会が廃止案をまとめ、その後3団体としての意見となりました。その経緯は、新聞で報道されているとおりです。すみません、海外出張中で記事や解説を紹介できなくて。(8月24日)
【知事会の変身】
新聞の解説では、全国知事会の「変身ぶり」が取り上げられています。24日朝日新聞の夕刊では、坪井ゆづる論説委員が「脱仲良しクラブ」を書いておられました。
「ふだんは答弁書を棒読みしがちな知事たちが、台本なしで持論をぶつけ合う。聞き応えがあった。」「かつてない議論百出ぶりは、知事のやる気を反映していた。多くの発言に共通したのは、地方から政府を動かそうという意識だった。」「もはや知事会は仲良しクラブではない。政府に意見を述べる政治的な機関なのだ。」「持論が少数意見に終わった石原都知事は閉会後、笑顔で語った。『とてもいい体験をした』。」
また、25日の日本経済新聞夕刊では、谷隆徳記者が「闘う知事会劇場第二幕へ」を解説していました。もっともその解説の中で、「今回の補助金削減案には、早くも補助金所管省庁から異論が噴出している」とあります。
しかし、各省が補助金削減に反対するのは、当然のことです。だから、小泉総理と麻生総務大臣が、削減案づくりを地方団体に依頼したんです。各省の反対は、初めから予想されていることです。ある人曰く、「各省の抵抗は、政府(小泉改革)にとって折り込み済み。ほとんど意味のない行為だ」ということです。(8月25日)
【義務教育国庫負担金の一般財源化】
今日は、義務教育国庫負担金の一般財源化について解説します。
一般財源化に反対する人たちの主な主張は、「負担金がなくなると、義務教育の機会均等が保障できない」ということです。しかし、これについては、次のような反論があります。
①地方団体が「負担金は要らない」と言っていること。
教育を実施している地方団体が、「(地方税と交付税で財源保障されれば)、負担金なしでやっていける」と言っているのです。負担金をもらっている地方団体が、「負担金はもう要らない」と言っているのに、文部科学省は「いやいや、まだまだ上げましょう」と言っているんです。なんと親切、なんと太っ腹!
おかしいと思いませんか。地方団体が「お金が足らないので、国から支援してくれ」と言って、国はなけなしの財源から負担金を配る、というのならわかります。これまではそうでしたが。
次のように例えましょう。
親から仕送りを受けていた子供が、「お母さん、もう僕は一人前になったから、仕送りして(国庫負担金を)くれなくていいよ。お父さんが耕している田んぼ(国が徴収している国税)を、僕が耕す(地方税で徴収する)から。」と言っているのに、母親は「いいや、だめ。これからもお父さんが田んぼを耕して、稼いだ金でお母さんが仕送りするから」と言っているのです。
「地方は信用できないから、国がお金を渡し、言ったとおりに仕事をさせる」。これが中央集権です。
「ちゃんと教育を実施します」と言っている知事たちを信用できないことが、まずおかしいです。もし信用できないのなら、法律でしばるなり、他に方法があります。「おまえたちは信用できないから、官僚が金でコントロールするんだ」と言われれば、知事が怒るのは当たり前です。しかも、知事は選挙で選ばれた人たちで、官僚は所詮は「国の従業員」でしかありません。
②教育の機会均等は、教員の給与の均等ではない。
反対論者は、教育の機会均等の議論を教員の給与論に「すり替えている」のです(これまでにも述べましたが)。
医療サービスと対比すれば、それがわかります。
国家は、健康保険と国庫負担で、国民に平等な医療サービスを提供しています。どこのお医者さんに行っても、同じ負担で同じような診療を受けることができます。でもその際に、医者の給料を国庫負担してはいません。
国民が期待するのは、「同じ負担で同様のサービスが受けられること」であって、「従業員の給与を同一にすること」ではありません。
いくつかの新聞で、「今回の一般財源化は、教育を数字あわせに使っている」と批判しています。それは大間違いです。これこそ、議論のすり替えです。議論しなければならないことは、教育サービスの質であって、教員の給与財源ではありません。そしてそれは、経済財政諮問会議ではなく、文科省が主体となって議論しなければならないことです。文科省には、補助金を配ることより、もっと重要な仕事があるはずです。(8月26日)