清水知子著『文化と暴力―揺曳するユニオンジャック』(2013年、月曜社)が、興味深いです。
サッチャー政権以後のイギリス社会を対象に、「働かない労働者を、どのようにして変えたのか」「社会の亀裂はどう広がり、サッチャリズムはどう利用されたか」「衰退した帝国はどのように反転を試みているか」などを分析しています。政治経済ではなく、社会文化の観点からです。
サッチャー首相にとって、新自由主義はあくまで手段であって、目的は「国民の信条を変えること」「国民の精神的な構造を変革すること」だったと、清水さんは喝破します。第2次大戦戦後のイギリス政治を特徴づけてきた「合意の政治」「福祉国家」こそが労働意欲をそぎ、サッチャー首相が登場する頃には、国民全体が福祉に依存する怠惰な文化を生み出し、英国病をもたらしたという主張が受け入れられていました。しかし、首相が主張し、各種の制度を改革しただけでは、国民の意識を変えることは難しいでしょう。それを支持した国民がいたから、劇的な変化が起きたのです。
国民の中にあった「亀裂」が、それを支えました。「内なる敵」、それは移民であったり、炭鉱労働組合であったり、アイルランド独立運動です。「私たち英国民を危機に陥らせる、人種的他者であり怠惰な市民」が敵になるのです。
一方で、伝統や集団から「独立する」ため、「自由」が尊重されます。しかし、それはサッチャー首相の言葉「社会というものはありません。あるのは個人としての男と女と家族だけです」が表しているように、中間集団というセイフティネットのない、孤立した個人と家族を生み出します。
政治や経済を論じる際に、それを支えた、あるいは反発した国民や市民の意識は重要です。しかし、分析するのは、難しいです。とらえにくく、移り気で、定量的分析にはなじみにくいです。
太平洋戦争を支持した国民意識、戦後復興と経済成長を支えた国民意識、失われた20年を受け入れた国民意識。そして、広く国民一般ではなく、指導者層、中間層、庶民、あるいは都市労働者と農民、若者と、立場の違いがあります。
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日本語への引きこもり
朝日新聞6月18日夕刊、藤原帰一教授の「翻訳文化の時代が過ぎて―日本語への引きこもり」から。
・・西欧と肩を並べる国家形成を目指して以来、外国文化の吸収は近代日本の課題だった。科学技術だけではない。旧弊に閉じこもった日本を変えるためには、欧米諸国の政治制度やその基礎にある価値観を学ぶ必要があるという自覚が、近代日本の知識人を支えてきた。
外国の言葉を話し、その知識や文化を伝える官僚、知識人、そして大学が西欧化の担い手になった。外国語を話さない国民には翻訳を通してその成果が紹介された。翻訳を読むだけで外国に発信することはできないし、外国語で意思を伝えることのできる官僚や学者は稀だったから、文化の流入は一方通行だった。とはいえ、外に目を開くことがなければ日本の変革があり得ないという感覚が多くの国民に共有されていた時代はあった。
高校生の頃から、私は翻訳文化を好きになれなかった・・
だが、国外に目を開くことに意味がないと思ったわけではない。翻訳を通すことなく原語を通して外国に学ぶ、いや、ただ学ぶのではなく、同じコミュニティーの一員として外国の人々と議論し一緒に仕事をするのが当たり前ではないか。翻訳文化とはその状態に変わる前の過渡的な現象に違いないと思っていた。
実際、翻訳文化とその時代は過ぎ去った。だが、代わって訪れたのは原語を通し国境を超えて議論を行う空間ではなく、日本語を読み、日本語で考え、翻訳された文章さえもあまり読まない空間だった・・
第2次世界大戦中のように政府によって強制されるからではなく、日本の外に広がる意味空間を、自分の選択によって排除するのである。
アメリカ人だって英語だけで勉強するひとがほとんどなのになぜ日本人が外国語を読まなければいけないのかと言う人がいるだろう。だがイヤな言い方を承知で言えば、外国語、特に英語で書かれた文章は、質量ともに日本語で構成された空間とは比較にならない。東西冷戦終結後の四半世紀、ヨーロッパでも韓国でも中国でも英語で構成された空間のなかで活動する人々が急増した。英語を母語としない人も英語で発信し、学術成果を発表するのが当たり前になった。英語を使わないと仕事にならないのだから無理もない。
ところがその時代の日本は、以前よりも日本語の世界に引きこもっていった。経済成長も達成し国内だけで大きな市場を持つのだから外国に目を向けなくても生きていける。英語を使わなくても豊かな生活を保持できるのは幸福だと言うこともできるだろう。しかしその幸福は、ものを知り、考え、議論する空間が日本語の世界に縛られるという犠牲と引き換えに得られたものだった・・
部分的に紹介するだけでは、先生の主張が正しく伝わらないので、原文をお読みください。
バンコクの邦人コミュニティ
6月16日の朝日新聞オピニオン欄、柴田直治記者の「バンコク、ニッポンの姿占う天使の都」から。
・・バンコク中心部で地下鉄、高架鉄道が交差するアソーク駅。1年半前に完成した駅直結のショッピングセンターのトイレに座り、私はこの街の変わりように改めて感じ入った。日本製の温水洗浄便座なのだ。
最近、アジア各地の高級ホテルの部屋でこそ採用されているが、だれでも入れる大規模商業施設のトイレすべてに備えられているのを見たのは初めてだった。
私は学生時代の1977年に初めて当地を訪れた。その3カ月前には反政府運動の弾圧と軍事クーデターがあった。街の空気は重苦しく、滞在した中華街は魔窟を思わせた。高層ビルもない。便所はもちろん水洗ではなく、紙もなかった・・
・・ビルはぐんぐん高くなり、道路や鉄道は整備されていく。街はきれいに、華やかになった。そしてこの便座! 公衆トイレは発展のバロメーターである・・
日本から訪れる企業や求職者は毎年2桁の伸び。一方進出企業の規模は年々小さくなる。「中小企業経営者の多くはアジア各地を回り結局タイに腰を据える。事務所の内装から登記、人材募集、会計監査まで日本語でことが足りるからです。求職者も日本語ができれば仕事はある。成長している国なので普通にやれば何とかなるんです」
バンコクの長期滞在邦人数(外務省統計)は一昨年10月で約3万5千人。首都としては世界一だ。中国・上海、米国ロサンゼルス、ニューヨークより少ないが、日本人社会の濃密さは他都市を圧倒する・・
住人も1990年代までは駐在員が多かったが、いまは起業家、現地採用組、老後のロングステイ、日本でためたお金の続く限り滞在する「外こもり」の若者ら、と多様だ。日本人美容師や保育士のニーズも生まれる。失敗し、挫折して帰国する人も多いが、それ以上に日本人はやってくる。
日本語で不自由しない、これほど大規模で豊かな邦人コミュニティーが海外に出現したのは、戦後初めてではないだろうか・・
雇用を維持するだけでなく、転職支援へ
6月13日の日経新聞経済教室「成長戦略を問う―雇用」、佐々木勝・大阪大学教授の「攻めの労働移動政策を」から。
・・大学生に教える「労働経済学」の教科書では、生産要素である「労働」は一般的に可変と考える。すなわち、企業が生産量の需要や賃金に応じて自由に労働投入量を変えることができる。同時に、労働者も産業間を自由に移動できると仮定している。しかし、実際の労働市場は教科書通りにはいかない。新しい産業で急速に雇用が創出される一方で、古い産業で急速に雇用が喪失される。このように産業間で激しく労働需要が変動しているにもかかわらず、労働供給がそのスピードに付いていっていないように感じる・・
う~ん、これは教科書の方が、現実離れしているのであって、生身の各労働者は、そう簡単に転職できません。私を含めて、「明日から別の仕事に就きなさい」と言われても、例えば介護や農業の技能は持っていないし、引っ越しを伴うとなると、なおさら転職は難しいです。
この論考では、ドイツでは失業をできるだけ避けるため、経営難の企業で働く労働者の再就職支援事業に力を入れていることが紹介されています。多くの再就職支援会社が、州政府の指導の下、経営難の企業で働く労働者を受け入れて、上限1年間の職業訓練を与えて転職の準備を支援するのだそうです。結構うまくいっていると、報告されています。
・・(日本では)従来は、雇用調整助成金を柱とした雇用対策が主流であった。神林龍・一橋大学准教授の2012年の研究は、リーマン・ショックによって本来なら多くの雇用が失われるところであったが、雇用調整助成金のおかげで失業者が増加するのを防ぐことができたと報告している。雇用調整助成金は、衰退産業であっても労働者を放出しないようにして失業を回避する「守りの政策」として機能してきたが、もう次は「攻めの政策」が必要だ・・
雇用調整助成金は、失業手当ほどは知られていないようですが、ここで指摘されているように、かなりの人の失業を防いできました。特に2008年秋のリーマン・ショック後の急激な景気・雇用情勢の悪化に対応するため、支給要件が大幅に緩和されました。2009年夏には、月間約250万人が助成の対象となりました(3月13日付日経新聞)。
生活不活発病
6月14日の毎日新聞「ひと」欄に、大川弥生先生が紹介されていました。「生活不活発病」の名付け親です。元は「廃用症候群」という名称だったそうです。確かにこれでは、診断された人は「廃人になるのですか」と思うでしょう。それに比べて、はるかにわかりやすい名称です。そして、対策もわかります。
被災地では仮設住宅に引きこもりになりがちで、またそれまでにはあった農作業や近所付き合いがなくなって、身体を動かすことが少なくなります。すると、歩けなくなったり、痴呆が進むという報告を聞いたことがあります。
かつてこのページで、「介護」という言葉がおむつカバーの会社が発案した名前だということを紹介しました(2007年5月30日)。介助の「介」と、看護の「護」をつなぎ合わせたのだそうです。1980年に考えられた、まだ新しい言葉です。1983年には広辞苑に載ったとのことです。これもよい命名ですね。