カテゴリーアーカイブ:歴史

韓国との相互不信

2021年6月17日   岡本全勝

6月9日の読売新聞が、韓国日報社との共同世論調査結果を載せていました。
・・・日韓関係を巡っては、「戦後最悪」と言われる状況に改善の兆しはみられない。日韓関係が「悪い」との回答は、日本で81%(前回2020年調査84%)、韓国で89%(同91%)となり、厳しい見方のままだった。「悪い」は両国ともに3年連続で8割を超え、高止まりしている。
相手国への信頼や親しみについて聞いた質問でも、日韓関係の行き詰まりを反映し、変化はみられなかった。日本で韓国を「信頼できない」は69%(前回69%)で、韓国で日本を「信頼できない」は80%(同83%)だった。相手国への親しみを「感じない」は日本で57%(同58%)、韓国で76%(同77%)に上り、相互不信は固定化している・・・

近年の変化も、図で載っています。日本では、2011年頃までは、良いと悪いが拮抗していました。韓国では、1995年にはかなり接近していましたが、その後は悪化したままです。「質問と回答

発掘された日本列島2021年

2021年6月17日   岡本全勝

今年も、先日「発掘された日本列島」展に行ってきました。
展示品を見ると、こんなものも土の中に眠っていたんだと、毎年驚かされます。新型コロナウイルス下での開催なので、関係者の方は苦労をなさったのでしょうね。

残念なのは、専門家による解説がないことです。素人には、出土品を見ているだけでは、そのものの価値がよくわかりません。解説があると、「なるほど」と思うことが多いです。

外交官 杉原千畝 命のビザ 続編

2021年5月23日   岡本全勝

昨年12月に、あいおいニッセイ同和損保が、10周年記念事業として「外交官 杉原千畝 命のビザ」の動画を配信していることを紹介しました。その企画は終わったのですが、好評につき、続編を提供しています。「外交官 杉原千畝 命のビザ 続編

今回は、杉原さんの足跡を取り上げるとともに、日本全国にある杉原さんゆかりの地を訪ね、史跡や関連施設を紹介します。前回の動画も要約版(12分)で見ることができます。
第1回目は福井県「人道の港 敦賀ムゼウム」です。

建て替えられる建物

2021年4月20日   岡本全勝

42年半の公務員生活で、いくつもの職場で働きました。先日、どこで働いたか思い出していて、気がついたのですが。それらの建物が壊されて、新しくなっています。
戦前の建物が古くなり、狭くなったので建て替えたもの、再開発で壊されたものなどです。そのような時代だったのですね。
地域と、勤めた順に見ていきます。同じ組織に2度以上勤めた場合は、最初の勤務を出します(と、去年11月ごろに書いて、放置してありました)。

(地方自治体)
昭和53年、徳島県庁。その後、隣に新築移転。旧県庁は移築されて、文書館になっています。
昭和58年、鹿児島県庁。その後、新築移転。旧県庁は、正面部分が県政記念館として保存されています。
平成6年、富山県庁。健在。
三つの県庁とも戦前に建てられ、内務省が造ったので、同じような形になっていたようです。旧山形県庁が、それを保存しています。

(霞が関)
昭和55年、自治省。旧内務省ビル。その後取り壊され、第2合同庁舎になっています。
平成10年、内閣・省庁改革本部。民間のビルに入っていました。最初に入った溜池の雑居ビルも、次に移った虎ノ門の第10森ビルも壊されて、再開発されました。
平成13年、総務省。新築された建物に入居しました。健在。
平成18年、内閣府・内閣官房。第4合同庁舎。耐震補強がされ、健在。
平成20年、総理官邸。平成14年に新築されたばかりでした。健在。
平成23年、被災者支援本部。内閣府別館。取り壊され、現在は第8合同庁舎が建っています。
平成23年、復興本部のち復興庁。三会堂ビル。健在。
平成28年、復興庁。第4合同庁舎。健在。

(出先)
昭和63年、自治大学校、広尾(有栖川公園の隣)。その後、立川に移転。旧校舎は売却され、高齢者施設になっています。
平成21年、消防大学校、三鷹。平成13年に改築されたもの。健在。
平成22年、自治大学校、立川。平成15年にこの地に移転新築され健在。
この項続く

戦後民主主義の罪、4

2021年4月12日   岡本全勝

戦後民主主義の罪、3」の続きです。

3 憲法の神格化
もう一つ加えておきましょう。憲法の神格化です。「憲法を守れ」という主張は、憲法を神棚に祀る神様にしてしまいました。ここには、いくつかの問題が含まれています。
(1)棚ぼた
一つは、自分たちでつくったものではない、そして自分たちで努力しないということです。
憲法は、国民が勝ち取ったものではなく、占領軍に与えられたものです。出自がなんであれ、良いものを取り入れることは良いことです。ただし、努力せずに手に入れたので、民主主義は努力しなくてもできると思ってしまいました。「棚ぼた」は、努力の必要性を忘れさせる副作用がありました。平和主義を唱えつつ、その努力はしないことも、ここにつながります。

(2)変えない
それは、今あるものを守るという思想につながりました。新しい課題があっても、それに取り組まないのです。その思想は、憲法を不磨の大典にしてしまいました。成文憲法では、日本国憲法が最古になっています。制定は最古ではないのですが、条文が変わっていない点では世界で最も古いのです。

(3)西欧が基準
憲法を与えてくれたのは西欧であり、ものごとの基準は西欧だという意識です。これは、戦後民主主義だけの罪ではありませんが、戦後民主主義が助長した面もあります。その背景に、明治以来、西欧をお手本にして追いつこうとした「この国のかたち」があります。
革新勢力と呼ばれた人たちは、「進歩的文化人」とも重なっていました。かれらは、欧米に留学し、その輸入に努めました。後進国日本を、先進国に引き上げました。その功績は大きいです。しかし、追いついた後も、その考え方を変えることができませんでした。
西欧を向いていることは、国内の問題を拾い上げないことにつながります。学者は西欧に留学します。しかし、国内の問題には取り組みません。憲法学者は、ハンセン病患者への差別を拾い上げませんでした。参考「憲法を機能させる、その2

(4)国民は客体
「憲法を守れ」という主張は、国民が憲法を作りかえていくことを阻害します。国民は、憲法を作る主体ではなく、憲法に守られる客体になります。
また、政府と国民を、対立する関係にとらえます。政府の間違いを批判するのは良いことですが、批判だけでは、自分たちが主権者であることを忘れてしまいます。

4 「革新勢力」の罪
戦後民主主義を唱え、擁護した人や勢力の問題は、戦後民主主義が定着した後に、次なる課題に取り組まなかったことです。
新憲法が定着し、戦前に戻らなかったことは、大きな成果です。しかし、新憲法が定着した後も、「憲法を守れ」と言い続けたことで、「保守勢力」になってしまったのです。そして、ここに述べたような問題に、頬被りしてしまったのです。社会の課題を切り拓く革新勢力にならず、国民からも支持を失ったのです。
たぶん1960年代半ば、遅くとも1970年には、新しい方向に転換すべきだったのでしょう。それは、1960年安保闘争と1970年の安保闘争との違い、国民の参加と関心度に表れています。
これを乗り越えるには、「輸入業」から自分で考える研究者になること、西欧の言論より日本の課題に取り組むことでしょう。批判と反対だけでなく、改革案を提示することでしょう。
厳しいことを書きましたが、民主主義が日本に定着したことを高く評価しつつ、次なる発展への課題を整理しました。これは、戦後民主主義や革新勢力だけの責任ではありません。