10月というのに、わが家のアサガオは、まだ花を咲かせています。さすがに、花は立派ではありません。
アサガオというと、小学生の夏休みの宿題を思い浮かべ、真夏のものと考えます。でも、季語は秋ですよね。10月まで咲いても、おかしくないとのことです。
10月というのに、わが家のアサガオは、まだ花を咲かせています。さすがに、花は立派ではありません。
アサガオというと、小学生の夏休みの宿題を思い浮かべ、真夏のものと考えます。でも、季語は秋ですよね。10月まで咲いても、おかしくないとのことです。
9月25日の読売新聞夕刊「紙で読む良さがある」から。
・・・ニュースや小説、書類を紙で読むか、デジタルで読むか、いつも悩ましい。そもそも、デジタルに比べて紙の方が優れている点って何だろう。読み書きメディアとしての紙とデジタルを比較研究する群馬大の柴田博仁教授に聞くと、それは「操作性」だという・・・
実験A
間違い探し。参加者は20〜30代の24人だ。同じB5サイズの紙とタブレット(iPad)で、1ページ分の文章から、文脈上おかしい点(「増加した」であるべきなのに「減少した」になっているなど)を探してもらった。
制限時間内の検出率は、紙のほうがタブレットより17・2%高かった。
実験B
2枚の文書(1ページ目が本文、2ページ目が注釈)を行き来しながら朗読をする実験で、紙とパソコンを比べた。ページを移動する際生じる中断は、紙のほうがパソコンより短かった。多くの人が2枚の紙の間に指をはさみ、読み終わる前にページをめくっていたことなどが理由と考えられる。
「目次のある本で『3章を開いてください』というと、ほぼ全員が、目次を見た後、目次に指をはさんだまま3章を開きます。もしページが違っていたらワンアクションで戻れます。習ったわけではないのに、身についている」
「目で情報を取るだけなら、紙でもデジタルでも、読むスピードや理解度はあまり変わりません。でも、読書の途中で著者情報を見たり、参考文献を見たりといったページを行き来する操作は、紙が抜群にしやすく、読みを阻害しない。デジタルは、ページをめくるなどの際、思考にプチプチ中断が入ってきます」
柴田教授自身が1年あまりの間「デジタルペーパーでだけ本を読む」という体験をしてみたそうだ。すでに持っていた紙の本も、250冊以上を裁断、スキャンして取り込んだ。
「私1人の例に過ぎませんが、気付いたことがいくつかありました。たとえば、自分が本のどのあたりの位置を読んでいるかがわからなくなりました。もちろん数字では『何ページ』と表示されますが、紙の本のように重さや厚さで感じるのとは違う。『終わりが来るぞ来るぞ』感もなく、いきなり終わったと感じたこともありました」
先日、いつもの散歩をしていたら、善福寺川べりで、対岸に向かって大きな望遠レンズのカメラを構えているおじさんがいました。何を撮っているのかと、その視線の先を見ると。
いました、カワセミです。あのきれいな翡翠色の羽です。川の中にある流木の先に止まって、しきりに頭を振っています。
よく見ると、何かをくわえて、飲み込もうとしているのです。獲物が大きくて、なかなか飲み込めないのです。5分ほどかけたでしょうか。ようやく飲み込みました。
写真を撮っていた人に聞くと、大きな川エビだったようです。
この場所でよく見かけるとのこと。その場所は、内緒です。
万年筆のうち2本のインクを入れ替えて、朱色を用意しました。
私は、原稿書きは、まずは万年筆で構想を練り、文章にする際にはワープロ(一太郎)を使っています。「文房具へのこだわり」
原稿を加筆する際には、朱色のボールペンを使っていたのですが、「そうだ、朱入れも万年筆にしよう」と思いつきました。で、いくつか持っている万年筆のインクを、黒から朱に代えました。一本は自宅の書斎に、もう一本は職場に置いて、使っています。
原稿書きは、集中力に左右されます。場所とともに、調子が出るかどうかです。それは、体調とともに、ほかの案件に頭が取られないことと、気分によります。
気分の一つが文房具です。調子の良いときは、どんな環境でも、どんな文房具でも書くことができます。ところが、行きなずんだ場合は、気分が乗りません。
万年筆にすると、気分が変わります。やや太めのペン先で、私の脳みそとつながる感じがします。執筆がはかどるようで、気に入りました。外見的機能は、ボールペンでも万年筆でも変わらないのですが。もっとも、しばらくすると元に戻るかもしれません。気分の問題ですから。
ところで、製造元によって、インクのカートリッジが異なるのは、不便ですね。黒インクはすぐなくなるので、瓶を買って吸い込んでいるのですが、朱はどれくらい使うかわからないので、カートリッジにしました。
外出時は、相変わらず3色ボールペンを持っていきます。これは便利です。肝冷斎は色が豊富です。
去年の今頃、何をしていたか、世間はどうなっていたか、覚えていますか。
先日ある人から「去年の秋は、旅行に行ったり、飲食もしていましたよね」と言われ、「そうだったけ」と議論になりました。
私は、昨年春のコロナ流行から、行動制限が続いているような錯覚に陥っていました。「1年半も、会食ができず、旅行も制約があるよな」とです。しかしその人の指摘を受けて、思い出しました。ゴーツートラベルキャンペーンって、やっていましたよね。
手帳を出して確認したら、去年の秋は、国内旅行も出かけていて、被災地視察も行っていました。夜の会食もです。
NHKウエッブで見ると、去年の9月ごろは、全国の一日の感染者数が500人程度だったのですね。今年の夏の万単位とは、まさしく桁が違いました。
去年のことを思い出すことも重要ですが、未来を考えなければなりません。来年の春、来年の秋に、どうなっているか。またどうするかです。
コロナウイルスを完全に押さえつけることは難しいでしょうが、うまく制御して、日常生活を取り戻したいです。見通しを示すこと、それに向かって条件を整えることが、為政者の任務でしょう。
子どもたちや学生、新採職員の養成など、そして飲食店や旅行業とその関係者のことを考えると、まずは一定の制約つきで行動制限が緩和できるようになると良いですね