カテゴリーアーカイブ:行政

被災自治体への応援職員、総括役登録1000人に

2026年6月21日   岡本全勝

6月6日の日経新聞に「被災自治体への応援職員、総括役登録1000人に」が載っていました。

・・・大規模災害時に都道府県などから派遣され、被災自治体の首長らを補佐する応援職員の登録数が1千人に到達した。ここ2年で7割以上増え、南海トラフ巨大地震をにらんだ国の目標に届いた。ただ人数には地域間で偏りもみられ、さらなる人員の充実が求められる。

応援職員の名称は「災害マネジメント総括支援員(GADM、ギャドム)」。地元で災害対応の経験があるなど、知見を有する管理職経験者らを対象とする。都道府県や市区町村の推薦により総務省が登録する。
創設の契機は2016年の熊本地震だ。
11年の東日本大震災で対応にあたった仙台市や宮城県東松島市などの職員が熊本県内の被災地に入り、避難所や災害対策本部の運営などをサポートした。
これらの実績から政府は18年にGADMを導入した。同年に始まった「応急対策職員派遣制度」の一環だ。

GADMは災害時、総務省などとの調整を経て被災自治体に派遣される。住民の安否確認や避難所運営、家屋被害の調査といったフェーズごとに、首長や幹部職員へ対応について助言する。
これまでに18年の西日本豪雨や24年の能登半島地震などで活用された。
跡見学園女子大の鍵屋一教授(地域防災)は「災害時は安否や避難所などに関する情報が飛び交い、幹部職員はどう対処したらいいか混乱しがちだ」と話す。その際に支援するGADMの役割は円滑な災害対応のためにも重要だと説く・・・

国勢調査の回答率8割

2026年6月19日   岡本全勝

5月30日の日経新聞に「国勢調査の回答率8割どまり 綻ぶ「全世帯」統計、ぼやける国の輪郭」が載っていました。
NHKなどの世論調査でも回答率は5割程度です。8割は高い方だと思います。戸建ての多い地方と異なり、アパートやマンションが多い都会では、誰が住んでいるかもわからず、難しいでしょうね。マイナンバーカードが全員に普及したら、それを使えますかね。

・・・2025年の国勢調査の回答率はインターネットと郵送で計80.7%にとどまった。選挙の区割りや国内総生産(GDP)の根拠にもなる「最も重要な統計」の精度が落ちれば国の輪郭はぼやける。あらゆる政策の土台が揺らぐ静かな危機だ。
調査は5年に1度、国内の全世帯を対象に家族構成や就業状態、勤め先の場所などを聞く。回答率は1995年に99.5%だった。その後は右肩下がりの傾向が続いてきた。
前回2020年は83.7%まで沈んだ。このうち79.8%分がネットと郵送で、3.9%分が調査員による回収だった。

国勢調査はあくまで全世帯の実態をつかむため、回答が集まらない分は近隣住民やマンションの管理人らへの聞き取りで補う。統計法が定める手続きだ。
その聞き取りにも限りがある。働いているかどうかや最終学歴など分からない項目は空欄のままで「不詳」という扱いになる。
東京都心の港区や新宿区は20年調査で「就業状態」が4割も不詳となった。両区は配偶者の有無も不詳の割合が2割を超えた。こうしたケースが増えるほど統計と実態がずれかねず、社会保障政策などの針路が狂いかねない。

国勢調査は大正時代の1920年に始まった。自治体が自治会の推薦などで調査員を確保し、人手で調査票を配布・回収するのが伝統的な手法だった。
近年は一人暮らしや共働きの広がりで昼間に顔を合わせにくくなるなど壁にぶつかっていた。そもそも人間関係も希薄になっている。
今回、ネットでの回答率は47.3%だった。IDやパスワードの手入力を省けるQRコードの導入などで前回20年調査から9.4ポイント高まった。目標としていた5割には届かなかった。
ネットの活用では英国が先を行く。オンライン主体の調査に切り替え、反応のない世帯は郵送や対面でフォローアップする。直近21年の回答率は97%に達した。未回答の多い項目は人口分布を反映して自動補完するシステムも取り入れている・・・

避難所で抜け落ちる、外国人の視点

2026年6月18日   岡本全勝

6月13日の朝日新聞「避難所で抜け落ちる、外国人の視点 山林火災があった岩手県大槌町」から。田村太郎さんのホームページ。

・・・大規模山林火災が5月29日に鎮火した岩手県大槌町では、多くの外国人技能実習生が働く。避難所では、生活習慣の違いから来る戸惑いもみられた。外国人に限らず、避難生活でのニーズは多様だ。どう備えていけばよいのか。

「お弁当ありますよ」
山林火災で煙に包まれた大槌町の避難所で4月下旬、女性たちが弁当を手渡され、貼られた成分表を見つめていた。
女性たちはインドネシアから来て町内の水産加工会社で働く、約20人の技能実習生だ。寮の裏山まで火が来た。避難指示を受け、最大約200人が身を寄せた城山公園体育館に来た。
実習生のうちの一人の女性(23)は弁当の配布に感謝しつつ、「ムスリム(イスラム教徒)だから豚肉も豚肉の脂も、お酒にあたるからみりんも食べる習慣がない」と話した。県災害派遣福祉チーム(DWAT)リーダーの小泉進さん(42)は「要配慮者は日本人高齢者を中心に考えており、ハラール(宗教的に認められた)食の視点がなかった。認識不足だった」と振り返る・・・

生活習慣の違いによる戸惑いは、食事にとどまらない。今回の山林火災で避難したインドネシア人女性は避難所にいた数日間、シャワーが利用できずに困ったという。
町内では火災後、避難者向けに銭湯やホテルの大浴場が開放された。だが、ムスリムには肌の露出を控える文化がある。女性は「他の人とお風呂に入るのは……」と抵抗感があったという。

1995年の阪神・淡路大震災以来、外国人の災害支援に関わってきた「ダイバーシティ研究所」の田村太郎代表理事は「ふだんから生活習慣の違いを理解するための接点が少ない」ために同様の問題が繰り返されてきたとみる。「『外国人』というくくりも雑で、出身地域や宗教によって習慣は多様な上、ジェンダーや子ども、持病など色んな属性がある」とも指摘する。

復興庁の復興推進参与でもある田村さんは「シャワーブースも備えとして標準化してもらいたい」と話す。食べ物については今、ハラール対応の非常食も市販されている。アレルギー対応食も同様だ。「『これしかないから、皆で我慢して頑張る』という日本の避難生活のスタンダードを、そろそろ改めませんか。選択肢の多い避難生活は誰にとっても過ごしやすいはずです」・・・

駅前駐輪場

2026年6月16日   岡本全勝

地下鉄丸ノ内線新高円寺駅の真上に、有料駐輪場がありました。青梅街道沿い、駅の出口から20メートルほどです。ビルが取り壊されたあと、空き地を駐輪場として営業していたのです。108台を駐めることができました。毎日ほぼ満車でした。
ところが先日、営業終了の張り紙がでました。利用者は困るでしょうね。近くに杉並区が作った地下駐輪場もあるのですが、こちらの方が便利なのです。
このような土地を区役所が買い取って、区営の駐輪場にできなかったのでしょうか。

鉄道の駅は、駅前広場やバス停、タクシー乗り場があって、駅前という感じがします。ところが多くの地下鉄の駅は、道路沿いに出口があるだけで、駅前と呼ぶような風景や機能になっていません。雨の日には、傘を広げるのも大変です。「ランドマーク」になっていないのです。
街づくりの一つとして、駅前を整備する発想はないのでしょうか。地下鉄会社にそのような思想がないならば、自治体が乗り出すべきだと思います。

コメ輸出より減反、半世紀3

2026年6月16日   岡本全勝

「コメ輸出より減反、半世紀2」の続きです。5月19日には「増産タブー視、消えたコンテスト」が載っていました。

・・・八ケ岳のふもとに広がる長野県富士見町の傾斜地の田んぼに、「米作日本一 生産の地」と刻まれた石碑がたたずむ。10アールあたりの収穫量(単収)を競う全国コンテストを1961、62年と制した、小池政之さん夫妻の功績をたたえたものだ。その収穫量は、975キロ(61年)と863キロ(62年)。一方、2025年産の収穫量の全国平均は、農林水産省によると573キロ。農水省のコメ研究の担当者は、「コンテストの優勝者ほどの収穫量がある農家は、いまはまずいない」と話す。

このコンテストは、終戦直後の食糧難の解決が緊急課題だった1949年に始まった。毎年およそ2万人が参加する激戦を勝ち抜こうと、農家はいち早く多収品種を導入し、日本一に輝く品種は、毎年のように入れ替わった。小池さんが61年に採用した「ふ系55号」も、前年に配布が始まった最新品種だった。
小池さんの棚田は、標高約1100メートルの寒冷地で、土壌は火山灰。コメ作りに不向きとみられていた。小池さんの技術を学ぼうと、全国から10万人を超える人が視察に訪れたとされる。だが、いまは「近くの小学校の子どもたちがキャベツを見に来るぐらい」と、次女美幸さん(80)は話す。

コンテストは68年で打ち切られた。そのころ、コメ政策は転換点を迎えていた。増産が進む一方、食生活の洋風化で需要は伸び悩み、政府は山積みになる余剰米の処理に苦悶していた。翌69年には、生産量を抑えるための減反に踏み切った。
このコンテストの主催者だった朝日新聞は「米作日本一20年史」で打ち切りの理由をこう記している。「『米の増産』に関連することはタブーとみられるにいたった」

減反で消えたのは、コンテストだけではない。
品種開発では、多収の研究が止まり、食味や冷害への対応力の向上が中心になった。限られた生産量でいかに収入を増やすかに注力し、高く売れるブランド米ばかりをつくるようになった。
それが半世紀にわたって続いた結果、かつて世界トップレベルを誇った日本のコメの単収の地位が大きく低下した。国連食糧農業機関(FAO)の統計によると、日本の1968年の単収は世界4位だったが、2024年は14位に落ち込んだ。米中などに抜かれた。

日本が減反を始めたころ、世界では単収を引き上げるために肥料を多く与えても稲穂が倒れないよう、背丈が低い品種の開発や普及が加速した。日本で進んだのは、この逆だった。1979年以降、作付面積トップのコシヒカリは、背丈が高く、単収は少ない。コシヒカリは、56年に命名された古い品種だ。
コメ政策に詳しい荒幡克己・日本国際学園大教授(農業経済学)によると、海外の主流品種は、古くても10年ぐらい前のものだという。「半世紀以上前に開発された品種がいまだにトップになっている日本の構図は、世界では異例だ」と話す・・・