「オフレコ」という言葉を、ご存じですか。私はかつて、「オフレコ」=「オフ・ザ・レコード」=「記録に取らない、公表しない取材」だと思っていました。しかし、この業界(マスコミ)では、そのような意味では使われません。
例えば、北海道新聞の記者が、7月12日に取材メモを他の政党などにメールで送った件について、同社は次のように発表しています。
・・道内の日本維新の会関係者から、取材源を明らかにしないことを条件に話を聞くオフレコで取材。同党の参院選対応などについて、取材先の氏名とともに内容をメモにし、北海道新聞の参院選取材班の記者全員にメールで一斉送信しようとした・・
ここでは、オフレコであっても「メモにする」と、記録に取ることを認めています。また、「取材源を明らかにしないことを条件に」と公表することも、否定していません。さらに、これまでにも大臣などが、オフレコで記者と話した内容を報道され、辞職するような事例もありました。ウィキペディアは、その点を明確に指摘しています。
オフレコという表現は誤解を招くので、別の言い方に代えた方がよいでしょうね。
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パラダイム転換、行政組織の場合
大学に講座ができると、通常科学の進化は進むが、パラダイム転換は起きないというのは、行政機構も同じです。
ある課題に取り組むために、法律や政策とともに、組織ができます。組織ができ制度化されると、政策と組織が永続化します。 官僚組織は、いったん与えられた任務は深化させます。これは、科学史での通常科学の進化と同じでしょう。しかし、そこからは、自らの組織を拡大する動きは出ても、その組織をつぶすような発想や職員は生まれません。
行政のパラダイム転換には、大から小までさまざまなレベルがあります。大は、行政のあり方、社会における官の役割見直しです。例えば、欧米への追いつけ追い越せモデルからの卒業や、事前指導から事後監視への転換などです。これは、個別の政策の転換ではなく、行政のあり方の転換です(これについては、北海道大学公共政策大学院の年報『公共政策学』に「行政改革の現在位置」を書きました)。
その次のレベルでは、新しい課題への対応と、達成した課題からの撤退です。例えば、環境庁や消費者庁の設置、コメの増産から減反政策へ、国内産業保護から開国へ・・。政策の転換は、新しい分野の法律制定や法律の大改正といった形で現れます。また、予算や人員を、新しい課題へと振り替えます。新しい組織も作られます。
行政機構では、誰がパラダイムの転換を主導するのか。これが大きな課題です。
「官僚機構とは、与えられた任務を実行する組織だ」と定義すれば、ここで提起しているようなことは問題になりません。「各官僚機構が取り組むべき課題は、政治家が与えるものだ」と仕組めば、官僚機構は自らの任務を変更する義務はありません。
大きな政策転換は、時代と国民が求め、政治家が主導するのでしょう。しかし、それより小さな転換は、各省幹部の責任だと思います。問題は、パラダイム転換的な任務と発想の転換を、行政機構の内部に、どのように仕組むかです。
私が官僚として考え続けていたことは、官僚組織が自らのパラダイム転換をどうしたら実現できるか、ということでもありました。
パラダイム転換、その3
さて、パラダイムの更新と定着、そしてその再生産の制度化という考え方は、本来の科学技術の分野を離れて、会社などの組織にも「応用」されます。
会社では、創業者や中興の祖が、新しい製品やビジネス・モデルを発明し、ヒットさせます。そして会社は大きくなり、従業員も増えます。
パラダイム転換は、このモデルがうまくいかなくなったときに、唱えられます。学問の行き詰まりや、会社では製品が売れなくなったときです。このようなときに、組織の内外から、パラダイム転換、革命が唱えられるようになります。
もっとも、転換を唱えるだけでは、改革になりません。学者なら、定説に代わる新説を提唱し受け入れられること、会社なら新製品が売れる必要があります。
この点、評論家はお気楽です。結果を出さなくてもよいのですから。もっとも、代案も出さずに、現状を批判していても、説得力はありません。ここに、評論家と実務者との違いがあります。
しかしここで、矛盾が生じます。会社や大学といった組織は、「通常科学」を進化させることは得意ですが、パラダイム転換には不向きです。
教授や会長の教えを守るのが、後輩や部下の務めですから。転換は、既存の幹部からすると、異端の考えであり、異端児です。
「科学革命」を成し遂げるのは変わり者で、「通常科学」を深めるのは普通の科学者です。会社でも、出世するのは、社長の教えを守る「よい子」です。
別の発想で従来の製品を革命的に変える製品や、通説を変える新説を出すのは、後継者からではなく、別の組織からです。革命家や改革者は、既存体制では不遇で、保守本流からは、危険分子であり、つまはじきにされるのです。
パラダイム、その2
中山茂著『パラダイムと科学革命の歴史』は、次のような構成になっています。
第1章 記録的学問と論争的学問
第2章 パラダイムの形成
第3章 紙・印刷と学問的伝統
第4章 近代科学の成立と雑誌・学会
第5章 専門職業化の世紀
第6章 パラダイムの移植
これだけではわかりませんが、時系列になっているのです。
第1章は、バビロニアと古代中国、古代ギリシャと諸子百家。第2章は、ヘレニズムと漢。第3章は、中国官僚制・紙・印刷とイスラムの学校、ヨーロッパ中世の大学です。第4章は、表題の通り。第5章は、ドイツの大学アカデミズムの成立、イギリスとフランスの場合、アメリカの大学院。第6章は、幕末明治の日本への西洋科学の移植です。
わかりやすくするために、いろいろなことを切り捨てておられるのでしょうが、私たちにも「なるほど」と思わせるものがあります。分厚い学術書も有用ですが、これだけ簡潔にするのはかなりの熟練が必要です。
パラダイム
中山茂著『パラダイムと科学革命の歴史』(2013年、講談社学術文庫)が、とてもおもしろいです。
パラダイムという言葉がよくわかるとともに、科学が「絶対的真理」として存在するのではなく、社会による認知や受け入れによって存在するものであることが、よくわかります。バビロニアと古代中国から説き起こし、平易な言葉で科学の進歩とは何かを説明してくださいます。
同じく講談社学術文庫の、野家啓一著『パラダイムとは何か』(2008年)も読みましたが、野家先生の本はクーンとパラダイムの解説であるのに対し、中山先生の本は、パラダイム転換と通常科学から見た学問の歴史です。いろんなことを考えさせてくれます。例えば、学閥と学派はどう違うか、大学は学問の進化を進めるのか阻害するのか。
私は、この本を読みながら、「ものの見方の枠組み」「組織での発想の転換」などを考え直しています。もっと早く読むべきでした。でも、このような文庫本の形になったのは、先月ですから、仕方ないですね。お勧めです。社内で改革を唱えつつ、実現せず不満を持っている方に、特にお勧めです。
「パラダイム」という言葉は、アメリカの科学史学者のトーマス・クーンが1962年に唱えた、科学史での概念です。クーンによれば「一般に認められた科学的業績で、しばらくの間、専門家の間に問い方や解き方のモデルを与えてくれるもの」です。
パラダイム転換や科学革命は、これまでの科学者の間での通説を壊し、新しい見方を提示します。天動説から地動説への転換のようにです。パラダイムの転換に成功すると、続く学者たちは、その枠組みで実験や観察を繰り返し、より精緻なものとします。クーンは、それを「通常科学」と呼びます。
クーンは、後にこの説を捨ててしまいます。しかしクーンの手を離れて、パラダイム転換という言葉は科学史以外でも用いられ、有名になりました。極端な場合は、「通説になったものの見方」としてです。いろんな分野で改革派が「旧来の考え方を、打破しなければならない」として、パラダイム転換を唱えるのです。経営学や評論で、多用されます。私も、よくこの意味で使っています。
この項続く。