10月21日の日経新聞文化欄、三島由紀夫50年後の問い、社会学者・宮台真司さんの「空っぽの日本を何で埋めるのか」から。
・・・日本人は敗戦後、一夜にして民主主義者に変わった。近年では一夜にしてLGBT(性的少数者)主義者に、ダイバーシティ(多様性)主義者になった。日本人は周りを見回して自分のポジションを保ちたがる、空っぽで入れ替え可能な存在だと三島は見抜いていた・・・
10月21日の日経新聞文化欄、三島由紀夫50年後の問い、社会学者・宮台真司さんの「空っぽの日本を何で埋めるのか」から。
・・・日本人は敗戦後、一夜にして民主主義者に変わった。近年では一夜にしてLGBT(性的少数者)主義者に、ダイバーシティ(多様性)主義者になった。日本人は周りを見回して自分のポジションを保ちたがる、空っぽで入れ替え可能な存在だと三島は見抜いていた・・・
アンドレアス・レダー著「ドイツ統一」(2020年、岩波新書)を読みました。小さな本ですが、現代に起こった大変化・大革命を国内情勢と国際情勢の両方からわかりやすく解説しています。あの大変化から、もう30年も経つのですね。お勧めです。
「生きている間はあり得ない」と、ほとんどの人が考えていたドイツ統一。それが、あれよあれよという間に進みました。当時の衝撃は、とんでもなく大きかったです。このホームページでも、何度か取り上げました。
高橋進著「歴史としてのドイツ統一-指導者たちはどう動いたか」(岩波書店、1999年)を読んだときの興奮を、「できないと思われていることを行う」(2004年9月13日)に書きました。高橋先生の本は、「ドイツ統一」でも訳者である板橋先生の訳者解説で取り上げられています。
「ドイツ、コール元首相逝去」(2017年6月18日)
共産党一党独裁が続く中国、王朝的家族支配が続く北朝鮮。これらの国々は、いつまでこのような体制が続くのでしょうか。また、変わるとすると、何がきっかけになるのでしょうか。この本を読むと、考えざるを得ません。
「国民の期待値の低下」の続きにもなります。連載「公共を創る」で、日本社会の変化を論じています。
昭和時代(後期)と平成時代と始まったばかりの令和時代を表現する、簡単な言葉は何かと、考えています。
国民の意識を表す一つの表現が、昭和は「憧れ」であり、現在は「あきらめ」になりつつあるのではないかというのが、私の見立てであり心配です。
20年ほど前、総務省に勤務していた頃に、地方行政の現状と課題を話す講演会に、しばしば呼ばれました。その際に、昭和後期の経済発展と行政サービスの拡大と、バブル崩壊後の停滞を説明しました。そして黒板に、昭和後期は「輝」、平成に入って「暗」になったと、一文字ずつ書きます。「では、次の一文字は何でしょうか?」と、聴衆に問うのです。
私が書いた一文字は「創」でした(拙著『新地方自治入門』333ページ)。輝、暗と来て、創は「規則違反」でしょうが。
「つくる」としたのは、未来は私たちが創るものだからです。社会や時代は、神様がつくるものでも、自然とできるものではありません。経済成長もその後の停滞も、日本人が作ったものです。もちろん、国際環境が制約します。
令和時代を、明るいものにするのか暗いものにするのか。それは私たち日本人にかかっているのです。
そう考えると、社会全体に、そして特に若者に「しかたがない」といったあきらめが広がっているように思えるのは、困ったものです。「別に」「なんとなく」「困っていないから」という言葉が流行るのは、あきらめの表現と思えるのです。皆さんは、どう考えますか。
東京大学出版会の広報誌「UP」8月号に、宮島喬先生の「日本はどんな外国人労働者受入れ国になったか 改正入管法から三〇年」が載っていました。
日本は、移民政策は採らない=外国人労働者の受け入れは制限するとしています。しかし実態は、外国人労働者を受け入れる政策をとっているというのが、この論考の趣旨です。人口減少と高学歴化で、産業界から労働力不足を訴える声が高まり、さまざまな制度改正をして受け入れてきたのです。その際に、高技能や専門能力のある外国人だけに制限するといいながら、抜け道があったのです。
1989年の入管法改正では、単純労働者は受け入れないこと(受け入れはごく一部の職種)が維持されつつ、「定住者」という在留資格を新設し、日系三世に充てられました。その後2年足らずで、日系ブラジル人とペルー人の来日・滞在者数は、15万人も増えました。「マジックか、二重基準なのか」と、先生は書いておられます。
しかし、日本語教育や職業研修は行わなかったので、彼らは派遣業者に頼って来日し、非正規の雇用に就き、労働者の基本的権利がなくとも甘んじて働いた(働かされた)のです。留学生のアルバイトや技能実習生も、同様に抜け道として機能しました。
労働者の送り出し国との間に二国間協定を締結するかしないかも、取り上げられています。日本は、労働者の受け入れを表明していないので、二国間協定を結ぶことはありません。しかし、二国間協定では、労働者の受け入れ条件(待遇などの労働条件、労災・雇用保険の適用、住宅、医療、年金などの内国人労働者との平等扱い)を定め、雇用契約に盛り込み、労働者の権利を守るのです。
建前を守りつつ、実態では漸進的に変えていく。これは、しばしば行われる手法です。これが、軋轢を少なくし、そして実を取ることに有効な場合があります。しかし、このような裏口入学(先生はサイドドアと言っておられます)は、副作用を伴うことがあります。
外国人労働者受け入れでは、この労働者の権利を守らないというとんでもない行為が行われています。非正規、低賃金、保障のない雇用が行われているのです。これでは、国際社会から批判を受けるでしょう。
詳しくは原文をお読み下さい。
10月20日の日経新聞経済教室、斉藤善久神戸大学准教授「生活者としての環境整備を 外国人労働者政策の課題」も、この問題を取り上げていました。
10月9日の朝日新聞オピニオン欄「新型コロナ 感染者を責める私たち」、
三浦麻子・大阪大学教授の発言から。
・・・「被害者たたき」という現象で説明するのが分かりやすいでしょう。女性が夜間に通り魔事件に遭うと「深夜に出歩くのが悪い」と責められることがある。心理学では、本来守るべき被害者を非難する心の動きを「公正世界信念」という考え方で捉えてきました。
世界には公正な秩序があると信じることで、私たちは安心して暮らせています。しかし「公正なはず」の世界で不運に陥る人を目の当たりにすると、大きな不安に襲われる。すると人の心には、「被害者は特別。正しく生きていればそんな目には遭わない」といういびつな事実認識をして、自分にとっての安定や秩序を取り戻そうとする力が働いてしまうのです。
感染者のニュースを見て、「我慢せず遊びに行ったから」「なにか不注意があったはず」といった理由づけをしたことはありませんか。未知のウイルスなど予測不能な状況に直面したとき、人間はそこに架空でも何らかの因果関係を仕立てて理解しようとする。そうすることで自分を「守った」気持ちになるのです。
これが、不運な被害者にもかかわらず、コロナ感染者を責めてしまう心のメカニズムです。しかし、その心の動きが「人間の性」であっても、それがむき出しとなり、誹謗中傷や差別という行為にまで至れば、感染者はより深い傷を負い、社会のつながりもずたずたになる。感染を隠す人が増えれば公衆衛生的にも悪影響です。
コロナ流行下で私たちの研究グループが実施した調査では、日本は他国に比べ、この「責める」意識が強いという結果が出ました。3、4月に日米英中伊5カ国の約2千人にした調査で、「感染した人は自業自得か」という質問に「そう思う」と答えた人は、欧米3カ国で1~2・5%、中国4・8%に対し、日本では11・5%。7月の調査でも同じ傾向でした。
なぜ日本人は「責める」傾向が強いのか。規範意識が高いといった説明はありえますが、調査からはまだはっきりと分かりません。ただ、日本におけるコミュニティーのあり方が密接に関係しているとは言えると思います・・・
與那覇潤さんの発言から。
・・・なぜ感染者を責めてしまうのか。一般的なイメージには反しますが、現在の日本が世界でもまれな「個人主義の国」であることが一因だと思います。
日本では、同調圧力を恐れず、自分の意見を堂々と唱えるといった、ポジティブな意味での個人主義は乏しいですよね。しかしそうした「正の個人主義」が弱い裏面で、実は「負の個人主義」は猛烈に強いんです。
「おれはおまえとは別の存在だから、触るな、不快な思いをさせるな」というのが負の個人主義です。自分と相手を包む「われわれ」の意識がない。「自己」が指す範囲を、個体ごとに分割し、「混じるな」と間に線を引く。
多くの飲食店が今、透明なアクリル板で客席を分けていますね。しかし日本人はコロナ以前から、自分と他人の心を疑似的なアクリル板で区切ってきた。「不快な気持ちにさせただけで、相手の領域への侵犯であり、アウト」。そうした発想が定着して久しい・・・