カテゴリーアーカイブ:生き様

建て替えられる建物、5

2021年6月3日   岡本全勝

建て替えられる建物、4」の続きです。

平成6年(1994年)、39歳で富山県庁に赴任しました。鉄筋コンクリート造りの集合住宅の宿舎に入りました。かなり老朽化していました。これも取り壊されたようです。
43歳で東京に戻り、新宿高田馬場(大久保)の公務員宿舎に入りました。これは建ったばかりできれいでした。もちろん今も健在です。

平成17年(2005年)、50歳で杉並区高円寺に家を建てました。土地を買いました。古い家が建っていましたが、取り壊して新築しました。そこに住んで、15年余りになります。建てる際に、工務店に「100年持つ家を作って下さい」とお願いしました。「大丈夫ですよ」と言ってくださいました。

こうしてみると、30年以上前に住んだ住宅は、すべてなくなっています。木造でも古いものは残り、新しいものの方が建て替えられています。鉄筋コンクリート造りは、劣化が目立ちますよね。平均寿命は30年あまりと聞いたことがあります。
外国の石造りやレンガ造りは、長持ちしています。全てではないでしょうが。

この連載は、読者に興味を持ってもらえたようです。皆さんには、昔話なのでしょうね。例えば40年前のことだと、私が20歳、昭和50年(1975年)に引き直すと、昭和10年(1035年)のことになります。戦前で、古い昔のことです。
「利用した食堂や本屋についても書いてください」との要望もいただきました。しばらく考えますわ。

建て替えられる建物、4

2021年6月1日   岡本全勝

建て替えられる建物、3」の続きです。
昭和53年(1978年)に自治省に入省し、すぐに徳島県庁に赴任しました。県庁近く(徳島市南仲之町)の木造アパートの2階に住みました。いま、グーグルのストリートビューで見ると、なくなっているようです。
2年後に本省に戻ったときは、豊島区目白(高田。都電学習院下駅の近く)の独身寮に入れてもらいました。中曽根康弘首相のご自宅の裏でした(中曽根さんはその後転居されました)。鉄筋コンクリート造り3階建てだったでしょうか、4畳半です。もっとも冬の間はほとんど職場に泊まり込んだので、洗濯をしに帰ったくらいでした。この建物も壊され、移転しました。

2年後に結婚して、六本木の集合住宅に入りました。これはその後、六本木ヒルズの再開発で、壊されました。
28歳の時に、鹿児島県庁に赴任しました。鹿児島市天保山町の宿舎(木造戸建て)でした。昔の建物で広く、正月には職員がたくさん来て宴会をしました。当時は桜島が活発に噴煙を上げた時期で、灰が窓の隙間から入ってくるという難点がありました。これも取り壊され、鉄筋コンクリートのアパート形式の宿舎になっています。

昭和63年(1988年)、33歳で東京に戻って、田端、次いで駒込の集合住宅に住みました。二人目の子どももできて、手狭でした。もっとも、私はほとんど家にいませんでした。この建物はまだ健在です。この項続く

夏椿が咲きました

2021年5月30日   岡本全勝

昨日「夏椿のつぼみが膨らみました」と書いたら、今朝5月30日の朝に、1輪咲いていました。真っ白で、きれいです。
夜のうちに、一挙に花びらを広げたのですね。自然や植物の力には、驚くことが多いです。
残念なことに、花は1日で落ちてしまいます。ほかにも、いくつもつぼみが膨らんでいるので、次々と咲くでしょう。

夕方からは、きっしょを立てて、椿の剪定をしました。先日、お師匠さんに相談すると、「もうそろそろやった方がよい」との指導をいただきました。
今日は8分目くらいにして、後は様子を見てからと考えて、はさみを入れました。教え通りに、葉を刈るのではなく、不要な小枝を間引きましたが、少々刈り込みすぎたかもしれません。いつものことです。

アサガオ発芽

2021年5月29日   岡本全勝

先の日曜日23日に、今年も孫と一緒に、アサガオの種をまきました。昨日28日朝に2つ芽が出て、夕方には10にも増えました。今日夕方には、20を超えています。
ここ数年、わが家で咲いたアサガオの種なので、どのような花が咲くでしょうか。

玄関脇の椿は、つややかな葉を、日の光に照らしています。かつてはくすんだ色で、お師匠様から「元気がないねえ」と言われていたのですが。肥料などの手入れがよかったのでしょう。かなり茂ったので、そろそろ剪定をしなければなりません。
夏椿も元気よく、緑の葉をたくさん開いています。マッチ棒の先のようなつぼみも、いくつか膨らんで、パチンコ玉くらいまでになりました。今年は、期待できそうです。
鉢植えの椿や桜も、葉を茂らせています。

建て替えられる建物、3

2021年5月19日   岡本全勝

建て替えられる建物」、今回は住んだ住宅です。

生まれ育った明日香村大字岡の住宅(岡本寺の隣。日経新聞夕刊コラム「明日への話題」第21回に出てきたお堂です)は、木造2階建てでした。戦前に建てられたようです。お堂は江戸時代でしょうか。30年以上前に、父が別の場所に新築し引っ越したので、近くのお坊さんに岡本寺ごと譲りました。住宅はその後、寺とともに建て替えられました。

子供の頃は、この家よりも、近くにある本家(父は次男)で遊んでいました。本家は広い敷地で、屋号の「さなんだ」は、敷地が三反田あったことから付いたとのことでした。2階建ての門屋は、立派でかなり古いです。家の中を水路が通り、水車が回っていました。裏は森で、飛鳥川に面していました。庭とともに、そこは子どもには格好の遊び場でした。その森は切り拓かれ、今は道路が通っています。川べりも、コンクリート護岸になってしまいました。
これは、折口信夫(釈迢空)の履歴(祖父の里)で出てくる岡寺前の家です。「祖父の造酒ノ介はもと、大和の明日香村岡寺前の岡本善右衛門の八男であったが、同地の古社飛鳥坐(あすかにいます)神社の累代の神主家飛鳥助信の養子となった上で、折口家に養子として入り、医を本業として従来の家業を兼ねた」。

昭和48年(1973年)、大学に進学して最初に住んだのは、東大駒場寮です。鉄筋コンクリート造り、3階建てでしたか。それぞれ大きな部屋で、戦前(第一高等学校時代)は、廊下の北側の部屋で6人寝泊まりし、南側の部屋で勉強したとのことでした。
私の時代は、1室を区切って4人が机とベッドを持っていました。学校の敷地内にあるので便利、歴史ある建物でしたが、汚いものでした。その後、壊されました。
3年生からは、本郷の正門前(本郷郵便局裏)に下宿しました。木造2階建ての6畳間でした。これも結構古かったです。最近まで残っていたのですが、数年前に鉄筋コンクリートの学生マンションに建て替えられました。
この項続く