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財政論1

パネルディスカッション「都市対地方:財政、公共事業、一極集中の是非をめぐって」発言骨子
日本経済学会2004年度秋季大会(9月25日岡山大学)
司会 東京大学井堀利宏
国際基督教大学八田達夫、京都大学藤田昌久、関西学院大学小西砂千夫、慶応義塾大学土居丈朗、総務省岡本全
私の発言骨子
「なぜ今、都市対地方が問題になるのか」から、問題を整理したい。
1 歴史的、社会的背景(かつての問題)
まず歴史的な経緯から見ておく。
(1)高度経済成長期
経済発展が、地域間の経済力格差を生む。
生産性の高い工業対農業=都市対地方という構図。
しかし日本では、それが政治的対立につながらなかった。
その理由は、次の3つと考えられる。
①人口移動:社会的解決
地方から都市(太平洋ベルト地帯)へ、大移動があった。
農家の二男、三男を都市が吸収
②工業分散:経済的解決
新産業都市建設をはじめ、農村部へ工業が立地。
兼業農家を可能にした。
③農業と農村の保護:政治的解決
米価政策、輸入制限
公共事業を中心とした補助金の配分
「自民党形政治」と呼ばれるもの。
こうして、世界一の経済成長と平等を達成
(2)東京一極集中
このように、高度成長期は、日本全体では「地方対太平洋ベルト地帯」、地方でも「中心都市対農村」という構図。
しかし、その後(1980年代以降)の東京一極集中は、それとは違う。
これについては、八田先生が説明してくださったとおり。
東京一極集中に対し、政治的、経済的に有効な対策を打てなかった。
以上が、日本の都市対地方問題の歴史である。
2 今なぜ問題になるのか
象徴的なのが、「骨太の方針2001」策定時の議論。
「均衡ある国土の発展」という国是を、「地域間競争」という言葉に転換しようとした。そこには、次のような背景がある。
(1)経済発展の終了
財源がないのに、都市から地方への財政移転を続けていることへの疑問。
赤字国債を大量発行しながら、まだ補助金と交付税を配るのか、という批判。
(2)補助金と公共事業の手法への疑問
米価政策は終了。
これまでの農業補助金は、農家を育てたか。疑問。
公共事業は農民と農村を豊かにしているか。疑問。
このまま補助金と公共事業を続けて、地方はよくなるか。
(3)問題の変質
農民は、4%を切った。
農業対策が、地方対策か。
都市対地方は、有効な問題設定か。
有効な地方振興策は、何か。
経済成長の終了=もはや、経済発展が生む地域間格差の問題ではない。
均衡ある国土の達成=公共事業によるインフラ整備もほぼ完了した。
課題を達成したときに、手法は変わるべきであり、また問題の立て方も変わっているのではないか。

三位一体改革21

16日の読売新聞には、山出保全国市長会長の「分権推進は歴史の流れ」が載っていました。「いま、国と地方が一緒にシステムをを変えるという意識に転じるようになってほしい」「義務教育は国の仕事ではないのかという疑問の声も聞く。何でも地方に任せろといっているのではない。むしろ国は、学力の到達目標が達成されたかどうかの評価・検証に責任を負うべきだ。これに対して、カリキュラムや授業時数の編成など、目標を達成するための方法は、地域や子供の実態に応じて、市町村や学校現場に任せてほしい。」「・・市町村には、学校を建設する権限だけで、任命権もない・・。教職員システムには一貫性がない」「もちろん、我々の改革案は地方にとって甘いものではない。市長会でも補助金がなくなる不安が少なくなかった。だが、『志を高く持とう』としてまとまったものだ」
昨日紹介した文科大臣の「国庫負担の現ナマを、地方はなぜ捨てるのか」と比べてください。「志の高さ」の意味を、みなさんも考えてください。(9月17日)
【視座の違い】
三位一体改革の動きは、新聞各紙が大きく伝えているところです。が、会社によって「報道ぶり」が違いますね。今回の場合は、事実はほとんど公開されているので、「藪の中」といったものではありません。それでも、差がでるのはどうしてでしょうか。
もちろん、新聞記者の力量と趣味によるものもあります。同じひまわりの絵を描いても、画家によって違うように。また、記者が書いた記事にデスクが手を入れ、編集されます。そこで、上司の関心と趣味の差がでます。
しかし、新聞記者たちと議論すると、今回の場合はもっと深い背景があるとのことです。それは、三位一体改革を政治部が扱っているか、経済部が扱っているかの違いが出ているのだそうです。
ある記者曰く「政治部記者は全体の政治・政策形成過程の中で何が起きているか、何が変わっているか、その潮目はどこか、だれが何を言ったか、だれが変化したのか、といった「流れ」「全体図」を見る傾向にあります。というか、そう見るよう要求されます。一方の経済部記者は、過程よりも、政策の形、特に数字という「事実」へのこだわり、正確さが要求されているようです。」
政治部は、この問題を中央集権から地方分権への大きな一歩と見ます。さらに、地方が案を作って中央政府に異議申し立てすることを、国の政治過程の構造的変革と位置付けます。また、小泉改革の一環として、〈族議員+各省〉対〈小泉+麻生〉と見て、〈自民党主導:旧来の政治過程〉対〈内閣主導:新しい政治過程〉とも位置付けます。
一方、経済部は、この問題をお金の取り合いと位置付けます。そして、大蔵省支配に対する異議申し立て見ます。政治部が「構造的変革」「新しい時代への幕開け」と見るのに対し、経済部は「いつもあるようなお金の取り合い」その一形態の「地方の反乱」としか見ないのです。
構造的分析に位置付けるか、事件の羅列としか見ないかの違いです。岡義達先生は、前者を「構成的視座」と、後者を「羅列的視座」と分類されました(岩波新書「政治」1971年。残念ながら絶版です。先生の名前は18日の日経「私の履歴書」(金森久雄さん)に出ていました)。すると、記事や解説に差がでます。当然、前者の方が深みがあって、かつ読者にはわかりやすいです。
もう一つ、経済部だと違いが出るという説もあります。それは、いくつかの社では、経済部の記事は多くの場合、財務省記者クラブ(「財研」と呼ばれます)の記者のチェックを受けるのだそうです。ある人曰く、「財研は、財務省より財務省らしい」。
そこで、記事は「財務省寄り」に手が入り、削除されるのだそうです。そのうえ、本社の経済部の上司は財研経験者がほとんどなので、さらに手が入り、場合によっては記事そのものが載らないのだそうです。
なるほど。それぞれの記者は中立であり、記事も中立的です。が、結果として、政治部が扱うと改革の構図を読者に見せてくれるので、改革派に近くなります。経済部が扱うと、読者にはいつものこととして読まれ、現状維持、守旧派に近くなります。
どの社が政治部で扱っていて、どの社が経済部で扱っているのか。当ててみてください。(9月17日)
21日の日本経済新聞は、「三位一体改革、予断許さず」を解説していました。
「政府は地方団体がまとめた補助金削減案を軸に11月半ばまでに改革の全体像をまとめる予定だ。省庁や族議員の抵抗は強いだけに先行きは予断を許さない」「地方団体に残り2年分の補助金削減案を作成するように要請した。補助金をもらう側である地方が『もう要らない』と言えば、抵抗勢力を押し切れるという読みがある」
「小泉首相が最終的にどう決断するかに改革の行方はかかっている」(9月21日)
新聞記者さんが何人か訪ねてきて、「静かですねえ、三位一体も動きはありませんか」と尋ねられます。
全「各省はどうしてますか」
記「補助金は必要と、頑張っていますよ。補助率を下げるとか、代案を検討しているようですが・・」
全「それは、去年12月に総理がダメと言ったし、地方団体が絶対飲みませんよ」
記「そうなんですがね」「内閣改造がすむまで、しばらく動きはないですね」(9月24日)

日々の暮らし

18日は、富山県城端町麦や祭り行ってきました。10年前、県の総務部長だった時に祭りに行きました。その時、河合県会議員(現参議院議員)、佐藤商工部長(現商工中金理事)、川田町長と酔いに任せ、みんなで「10年後に会いましょう」と墨書しました(らしいです)。すっかり忘れていましたが、「証文」が残っていて・・。
富山では、八尾町の「おわら風の盆」が有名ですが、城端の「麦や」と「庵うた」もいい祭りです。伝統を若い人たちが受け継いでいます。伝統的な踊りだけでなく、「よさこいソーラン」的な踊りも加え、外からの若い人たちを交えて、さらにパワーアップしていました。町は、中心部を通る国道をバイパスにせず、拡幅しました。多くの家が立ち退きや建て替えを余儀なくされ、大変だったのですが、その道路を利用して街の角かどで踊りが行われるのです。これも成功の秘訣でしょう。(9月19日)
その際、北日本新聞松井政治部長のインタビューを受けました。19日の朝刊に、「元県総務部長の岡本全勝総務省大臣官房総務課長が十八日来県し、国・地方財政の三位一体改革で、地方六団体がまとめた国庫補助負担金の削減案について『官僚側の抵抗は根強いが、有効な代案を出すのは難しいだろう。最終的に、地方の削減案がほぼ政府の改革案として通るのではないか』との見通しを示した。・・・『改革の先には、地方の責任や厳しい財政運営が待っていることを自覚することも必要』と指摘した。」と載せてもらいました。全文はこちら

三位一体改革20

【国と地方の協議会】
昨日(14日)、首相官邸で三位一体改革についての関係閣僚と地方団体代表との協議会初会合が開かれました。各新聞が、大きく伝えています。そこからいくつか。
(各省の反対、でも・・)
まず、「閣僚が反対論」「異論続出」「省庁は抵抗宣言」などなど。これは事前に予想されたことです。これに関しては、「補助金存続を図る関係省庁が、削減リストをまとめた地方に必要性を力説するという『逆陳情』の場となった」
「もともと補助金を受け取る地方側が『返上』を申し出てスタートした協議だけに、いくら必要性を強調しても、旗色はよくない」
「自民党族議員を通じての抵抗という古典的手法だけでなく、さまざまな手法で補助金温存を図る。・・ただ郵政民営化問題同様、補助金三兆円削減の公約を首相が覆す展開を想像しにくいも事実で、次第に外堀は埋まりつつある」(毎日新聞、野倉恵記者ほか)といった解説があります。
(代案、押し付け合い)
細田官房長官は、「地方案に意見がある場合、提案されている額に見合う代替案を出してほしい」と要請しました(朝日新聞など)。
これについて、「省庁同士で『痛み』をよそに押し付けようという駆け引きも始まっている。・・文部科学省は『代わりに総額の大きな社会保障分野を削減すべきだ」として、代案の検討に着手。これを察知した厚労省の幹部は『他省庁の分に口を出すなんてとんでもない話だ』と怒りをあらわにしている」(読売新聞)とも。
(政治的意味)
私が強調している「新しい政策決定過程」の観点からは、「『実質対等』狙う知事会」「『国の政策決定に地方が参加するための足がかりにしたい』(増田寛也岩手県知事)。政府との協議を、全国の知事たちは、永田町霞が関にくさびを打ち込む好機ととらえている」(朝日新聞)。
読売新聞は「首相としては、地方団体を巻き込んで三位一体改革を進めることで、『新たな政策調整のあり方を考えたい』との思いがあると見られる。地方の『圧力』も利用しながら、補助金削減に抵抗する各省と族議員を押さえ込む狙いもあるようだ」。
(何が評価されているか)
上田雅信全国都道府県議会議長会長は「ボールを政府に投げ返したのに、批判ばかり出ている。そんなに地方は信用がないのか」(朝日新聞)と発言しておられます。
梶原全国知事会長は「役人たちがこちょこちょ動き回ってけしからん」(毎日新聞)、「大臣は、各省の代弁ばかりをしていた。次回の会合からは国全体を考え、国務大臣として行動してほしい」(東京新聞)と言っておられます。そうです、大臣もまた、政治家としてその行動が評価されているのです。(9月15日)
(遂にクイズに)
15日の日本経済新聞夕刊の経済クイズ欄で、「三位一体改革」がテーマになっていました。「遂にそこまで来たか」という感じです。でも、ちょっと難しかったです。(9月15日)
昨日の続きです。15日の朝刊から。
(財務省の責任)
「財務省は『6団体の改革案は「ムダな事業はこの際やめる」といった納税者の視点を欠いている』(谷垣禎一財務相)と反論。総務省が税源移譲の対象とした補助金3.2兆円のうち、1兆円の公共事業関係費は『削減を基本とすべきだ・・』と主張する」(毎日新聞、川口雅浩記者)。
これについては、すでに何度も批判したとおりです。ムダな事業があるのなら、財務省が査定して削減すればいいのです。これでは「財務省は力がないので、地方団体で削ってほしい」と言っているようなものです。財務省は自らの発言の意味をわかっておられるのでしょうか。まさか、「財務省は査定できないので、地方団体に権限を譲る」というのではないでしょうねえ。
(ガス抜きの場?)
「細田官房長官は、政府案決定の段取りについて『地方団体に了承を得るというわけではない。最後は政府として決めさせてもらう」と説明しており、政府内には『協議会が決定の場所なのかあいまいだ』との声もある。
『地方向けのガス抜きの場となるだけで、何かがまとまるはずがない』(財務省幹部)と冷ややかな見方さえ漏れている」(読売新聞)。
前段はその通りです。政府の法律案や予算案を決めるのは、内閣の責任です。協議会には、そこまでの権限はありません。しかし、今回は「政府案のとりまとめを地方団体に依頼した」ことから始まっているのです。総理は地方案を「真摯に受け止める」と言っておられます。地方団体案に「決定的に」不都合な点があれば、微修正をする場でしょう。そうでなければ、原案尊重でしょう。
後段は変ですよね。地方は案を提出しました。代案を出すのは国の側です。まとまらないとすれば、国の方がまっとうな代案を出さないからでしょう。となると、地方案が成案となるのです。その場合は、「地方向けのガス抜きの場」ではなく「各省向けのガス抜きの場」となるのです。
国側の代案をまとめることができるのは、財務省でしょう。でも、これまでの言動と、このような「無責任な」発言をしておられるようでは、まっとうな代案はでてきそうにありませんね。
(後世の批判)
16日の朝日新聞は、協議会の議事録を紹介していました。「閣僚から異論が続出。初会合から、権限を守ろうとする霞が関の『徹底抗戦』ぶりが浮き彫りだ」。なかなか面白いので、ご一読ください。
「国庫負担の現ナマ(補助金)を、地方はなぜ捨てるのか」(河村文部科学相)。この言葉が、国と地方のずれを「集約」しています。お金で全てを考えてきた官僚には、今回の地方分権の意味がわからないのでしょうねえ。
その他の発言も、地方からの議論や常識から「ずれて」います。例えば文科相「義務教育は国家の土台だ」→誰もそれに反対してません。「教育が地方でバラバラでいいわけがない」→かなりの部分で賛成です。でも6・3制を変えようとおっしゃったのは大臣ですよ。そして、今議論しているのは、教員の給与(のしかも財源)です。教育論を教員の給与論にすり替えないでください。
国土交通相「はんらんしたのは県管理の河川。」→これも同様。今は、河川の管理権の話をしているんじゃありません。
梶原拓全国知事会長「地方に任せるとろくなことはないとの声があるが、地方をバカにすることは有権者をバカにすることだ」。その通りだと思います。官僚がこんな認識だと、将来しっぺ返しを受けることになるでしょう。また、政治家も。
議事録が公開されるとよくわかります。評価の基準は、「発言者が後世の批判に耐えられるか」です。
(政治ドラマ)
ある記者さん曰く、「三位一体改革は、本当に面白い政治ドラマを見せてくれますねえ。しかも日本の政治が構造的に変わる現場に、立ち会っているんですから。毎日のように大量の記事を書くのは大変ですが、ありがたいことです。こんな場を設定した小泉総理と麻生大臣に、感謝しなければ。それと、盛り上げてくれる抵抗勢力にも感謝しなければ。」(9月16日)

ヨーロッパで考えたこと2

【異質なものとの共存】
もう一つ、ヨーロッパで考えたのは、異質なものとの共存です。それは、次のようなことです。
ドイツでもパリでも、街でイスラーム系と思われる人をたくさん見かけました。もちろん黒人を始め非ヨーロッパ系の人もです。特にパリでは、バスがそのような人たちが集住している地区を通ってくれました。
白人であっても、東欧・南欧と思われる人、すなわち典型的ドイツ人やフランス人でない人も多そうです。私には、明確には区別はつきませんが。
ホテルで洗濯物を取りに来てもらったら、スカーフをかぶった中東系の若い女性でした(私と彼女で、英語でやりとりするのです。もっとも、アメリカ人としゃべるよりは通じたかも)。
フランスは総人口が6、000万人、うちモスリムが500万人、1割近くと推定されています。パリでの密度はもっと大きいでしょう。
パリには昔から、いろんな国の人がいます。ヨーロッパだけでなく、かつて植民地であったアフリカや東南アジアからの人たちもです。数多くの外国人を受け入れてきました。もちろん日本人の画家も。しかし、なぜモスリム(イスラム教徒)だけが「問題視」されるのでしょうか。そして、なぜ近年問題になったのでしょうか。
帰国して本屋で、内藤正典著「ヨーロッパとイスラム-共生は可能か」(岩波新書、2004年)を見つけました。そこに、切れ味よく経緯と分析が書かれています。
私の理解では、次のようになります。
ヨーロッパは、ヨーロッパ『文明』を受け入れるという条件の下で、外国人を受け入れてきました。その文明とは、基本的人権の尊重であり、政教分離です。それを受け入れれば、たとえ『文化』が違っても、受け入れてきたのです。
中華街ができても、日本のラーメン屋ができても。その点、フランスに移住した外国人は、東欧系であれ、アフリカ系であれ、アジア系であれ、ヨーロッパ『文明』に帰依したのです。
しかし、イスラームは政教分離ではなく、近代ヨーロッパ『文明』の「啓蒙主義」と相容れないものがあるのです。
さてこの点、日本はどうでしょうか。日本は、ヨーロッパ文明圏に入りましたが、日本文化と異なる文化を持った人たちが入ってくることに、まだ抵抗が強いようです。文明の違いの前に、異文化の人たちを受け入れる努力は少ないようです。そして、彼の地のような議論は、あまりなされていません。
もちろん、ヨーロッパ諸国は、地続きであることと、植民地支配の「負の遺産」を抱えているという背景もあります。でも、それを言うなら、日本も植民地支配の過去があります。また、ボートピープルという難民が来たこともありますし、北朝鮮からの「脱北者」受け入れもあります。
「花の都パリ」「国際都市ロンドン」にあこがれて、日本からも多くの人が渡りました。それを、彼の地・彼の人たちは受け入れてくれたのです。東京が「国際都市」を標榜するのなら、あるいは諸外国の人から「あこがれの地」となるためには、異文化の人を受け入れる雰囲気が必要でしょう。
「パリやロンドン、ニューヨークには行くが、外国人は受け入れない」では、尊敬されませんよね。
さて、もう一つ、ヨーロッパでの異質な文化受け入れの努力についても、述べておきましょう。先に紹介した、羽場久み子著「拡大ヨーロッパの挑戦」には、25もの国が統合される際の「苦しみ」も書かれています。
私たちから見ると、ヨーロッパはキリスト教という共通の歴史を持った「一体感あるまとまり」と思えますが、内実はそうではありません。キリスト教だって、カトリック、プロテスタント、ギリシャ正教と異なります。民族も言葉も、そして文化もかなり違います。
そして、この半世紀、西側資本主義国と東側共産主義国とに別れ、対立してきたのです。それは、自由主義経済の定着発展度合いの違いから、民主主義や自由主義といった政治の仕組みと運営の違いなども違います(新しい国をつくる努力については、別に書く予定です)。
さらに、経済力が違います。1人あたりGDPでは、EU平均の半分程度でしかない国もあるのです。
これらの違いを前提として統合するには、かなりの努力が必要です。均質化するのでなく、「多様性を持ったままの統合」です。