『司馬遼太郎の時代』3

司馬遼太郎の時代』2の続きです。私が、司馬作品から影響を受けたことです。
まず、内容について。
「この国のかたち」という考え方と言葉は、しばしば使わせてもらっています。これは、政治学や社会学では詳しく取り上げられず、よい言葉がないのです。
明治という国家の見方、それに対比した戦前昭和の見方、現在日本の見方は勉強になりました。それは、歴史学の本を読んでも出てこないのです。

次に文体についてです。
司馬作品には、しばしば「余談ながら・・」という文章がでてきます。『司馬遼太郎の時代』174ページでも取り上げられています。
それは、本文から離れ、その背景や意義を解説するものです。「注」が本文に書かれているようなものです。これが、「小説でも史伝でもない」現れの一つです。その「注」を本文の展開に支障がないように書くことが、司馬さんの力量でしょう。

それと比較するのはおこがましいのですが。私の講演で実例や私の体験を話すと、聴衆によく聞いてもらえるのは、よく似ているのかもしれません。
違うのは、司馬さんの「余談ながら」は、本文に関係することをより広い視野から説明する(蟻の目から鷹の目に上昇する)のです。それに対し、私の場合は、抽象的な話から具体に入る(鷹の目から蟻の目に降りていく)のです。

もう一つ。司馬さんの文章は、それぞれが極めて短いです。1文が、3行以上になるのは少ないです。これが読みやすい理由です。私も、まねをさせてもらっています。