『司馬遼太郎の時代』2

司馬遼太郎の時代』の続きです。
これだけ読まれたのに、文学や歴史学の世界から無視されたことや、いわゆる「司馬史観」への批判についても、取り上げられています。
司馬さんが自らの作品を「小説でも史伝でもなく、単なる書きもの」と呼んだことに、その理由があるようです。本人が意図した、小説でも歴史でもないことが、双方の「業界」から相手にされなかったのでしょう。それぞれから、「正統でない」「はみ出しもの」と位置づけられたのでしょう。

「司馬史観は史実のある面だけをを切り取っている」「現在の歴史学では間違っている」との批判は、司馬作品を歴史学の本と見なした批判でしょう。司馬さんは、苦笑していると思います。
どれだけ多くの人が、司馬作品で歴史を学んだでしょうか。小説と史書との間を橋渡ししたのです。それに対し、歴史家は司馬作品に匹敵するだけの成果を生みだしたでしょうか。歴史に興味を持つ国民を増やしたことで、歴史学会からは表彰されてもよいでしょう。

私は成人してからは、小説(作り話)をあまり読まなくなりました。複雑な現実世界を生きていると、小説の「単純さ」に飽きたのです。他に政治経済社会の本を読むのに忙しく、気を抜くなら紀行や随筆があいます。もちろん、小説の読み方は人それぞれでしょう。
その中でも、司馬遼太郎作品と塩野七生作品は、好きで読みました。それは、英雄を描いた小説でなく、時代背景を描いていること、そして現在日本を視点にその比較(しばしば批判)として書かれているからです。この項さらに続く。