今日から7月です。カレンダーをめくったら、夏の青空と風景の写真が出てきました。
肝冷斎のカレンダーも、6月のナメクジに代わって、7月は星座です。
ところが、東京は大雨です。各地でも豪雨になっているようです。被害がないことを願っています。
年別アーカイブ:2021年
大きな政府、小さな政府
6月26日の日経新聞コラム「大機小機」は「大きな政府 日本の事情」でした。
・・・1980年ごろから続く「小さな政府」への世界の流れは、大きな転換点を迎えつつある。新型コロナウイルス禍を機に政府の役割は飛躍的に高まった。バイデン米政権は米国救済計画に加え、雇用計画、家族計画といった大型財政政策を立て続けに打ち出して「大きな政府」へと明確にかじを切っている。
欧州はもともと日米に比べ「大きな政府」だったが、英国の欧州連合(EU)離脱でその色彩を一段と明確にした。政府は今後、気候変動対策を軸に経済社会への関与をさらに強めていくだろう。
それでは日本も「大きな政府」に向かうのかと考えてみると、事情はかなり違いそうである。その根本には、国民の政府実態への認識の問題がある。財政赤字の大きさから日本政府は大きすぎると思っている人も少なくないようだが、実態は全く異なる。
公務員の数は国際比較でみて圧倒的に少ない。財政支出の国内総生産(GDP)比が極端に低いとはいえないが、世界に冠たる高齢社会で社会保障支出が多いからにすぎない。これを除けば、日本は極めて「小さな政府」だ。新型コロナウイルス禍への対応の失敗にも、デジタル化の遅れといった要素はあるが、自治体や保健所などの人員や権限の不足に起因するところが少なくなかった・・・
・・・それでも消費税増税への反発の強さなどを考えれば、国民の間に政府の役割強化への合意が存在するとは思えない。日本が「大きな政府」に向かうとすれば、それは財政規律喪失の結果である可能性が高い。超低金利に安住して巨額の予備費が設けられるなど、財政規律は一段と緩んでいるように思われるからだ・・・
ここには、いくつかの論点があります。一つは、歳出は大きな政府なのに、負担は小さな政府だと言うことです。その差は、借金で子孫に負担を先送りしています。もう一つは、福祉など政策経費と、人件費などの業務費のどれをもって、大きさを比べるかです。
「小さな政府」という言葉は、有権者に向かっては、心地よい宣伝文句でしょう。その内実を検証せずに、宣伝文句を繰り返しているようです。
立花隆さんの功績
6月25日の朝日新聞、ノンフィクション作家・柳田邦男による「立花隆さんを悼む、ジャーナリスト+歴史家の目」から。
・・・一国の政治や社会に内包された巨悪とも言うべき矛盾が、一人か二人の作家あるいは知識人の表現活動によって衝撃的に露呈され、時代の傾向あるいは特質を劇的に変えるという事件は、洋の東西を問わず歴史的にしばしばあった。1974年10月発売の文藝春秋11月号に立花隆氏が発表した「田中角栄研究――その金脈と人脈」は、まさにそういう歴史的な事件だった。
戦後史を振り返ると、60年代まではジャーナリズムの社会に対する影響というものは、オピニオン・リーダー的な評論家や知識人が政治や社会問題について、チクリと気のきいた名句(例えばテレビ時代を迎えた時の評論家・大宅壮一氏の「一億総白痴化」)などによるものだった。それを劇的に変えたのが、「田中角栄研究」だった。
この少し前、たまたま米国では、ワシントン・ポスト紙がニクソン大統領陣営による大統領選挙不正事件(ウォーターゲート事件)を、綿密な証言収集や証拠資料収集によって暴露し、現職大統領を辞任に追い込むきっかけを作り注目を集めていた。公的な捜査や調査に頼らない「調査報道」の力の大きさを示すものだった。だが、立花氏はその事件に影響を受けたわけではなかった。偶然、時期が重なっただけだった。時代の要請が国境を越えて共通のものになっていたと言おうか。歴史の興味深いところだ・・・
・・・しかも氏が強調したのは、単に金脈事件の暴露を羅列したのではない、自民党全体を含めての「金脈の全体的な構造」を、徹底的に資料を漁(あさ)り、証言を集め、それらを分析して解明することを目指したということだった・・・
作為の失敗、不作為の失敗2
「作為の失敗、不作為の失敗」の続きです。
不作為の失敗の一つに、改革の遅れがあります。環境が変化しているときに、それへの対応に失敗するするのです。改革が必要なのに、それを先送りするのです。
「茹で蛙」(ゆでガエル)といわれるように、徐々に起きる変化は気がつきにくく、対応に失敗することが多いようです。
バブル経済崩壊後の日本の改革の遅れは、これに該当するでしょう。いくつもの行政改革が行われましたが、まだまだ十分ではありません。
また、政府予算も地方財政も、毎年大きな赤字を積み重ねています。歴史的にも諸外国比較でも、突出しています。しかし、歳出はいろいろな理由でふくれあがり、他方で消費税をはじめ税負担は先進国では最低水準です。後世に子や孫からは、恨まれるでしょうね。
日本企業も、技術の進歩や国際競争の激化に対応できず、地位を落としています。電機メーカーが代表でしょう。
責任者たちは「私は間違ったことはしていない」と弁明するでしょうが、従来の路線を続け、転換しなかったことが間違いだったのです。しなかったことの失敗です。しかしその時点では間違いは目立たず、後になってからツケが回ってきます。
「だれも悪くなかったのに、組織は衰退した」です。企業なら業績が悪化し、倒産するのでしょう。国家の場合は、子孫にその負担が回ります。
成功した組織ほど、改革は難しいです。それまでの成功を捨てなければなりません。そして組織の長や責任者たちは、旧来の組織の中で出世してきた人たちです。旧来型の発想が身についた、旧来のエリートなのです。
当事者は大局的に物事を見ることができなくなり、部外者の方がその状況をよくわかることもあります。岡目八目です。
政治家や官僚の評価は、10年か20年後にわかるのでしょう。後世の人から「なぜあの時やらなかったのですか」と問われた時に、明確な説明ができるように心がける必要があります。「気がつかなかった」も「仕方なかったんだよ」という言い訳は、無責任です。「そのときの勢いで(進んだ。止めなかった)」とは、責任者の言う言葉ではありません。
日本企業への信頼、東芝と経産省
6月23日の日経新聞オピニオン欄、小平龍四郎・論説委員の「東芝、議決権介入で損なった国益 重なる日本企業の実情」から。
・・・東芝が25日に定時株主総会を開く。外部弁護士の調査報告は同社の2020年株主総会の運営が、海外の物言う株主(アクティビスト)の議決権行使に介入するなど、不公正だったと結論づけた。今年の総会に臨む多くの株主の胸のうちは、いかに。日ごろから情報交換をしている海外の市場関係者に聞いた。
「日本の企業統治(コーポレートガバナンス)は改善にはほど遠く、日本市場への信頼を再びなくした」(米国東部の公的年金基金)
「事実だとしたら日本企業そのものへの見方にも影響するだろう」(英国の有力機関投資家)・・・
・・・もう一つ共通するのは「これは東芝だけの問題ではない」という視点だ。もはや焦点は、総会で取締役が選任されるかどうかといった問題を超えている。「日本にはすぐれた統治事例も多い」(アジアの投資家)との見方もあるが、多くの外国人投資家にとって、東芝は日本株式会社の象徴になりつつある。
日本企業は旗色が悪くなると政官の盾の後ろに逃げ込み、異論の排除に動く。少なくとも排除のリスクがある。そんな見方が醸成されつつあるということだ。
日本市場で「コーポレートガバナンス」が強く意識されるようになったのは、1990年代のバブル崩壊後だ。証券会社が大企業の財テクの損失を穴埋めする「損失補塡」が発覚し、日本に好意的だった海外の投資家がいっせいに日本不信を強めた・・・
・・・92年にはカリフォルニア州職員退職年金基金(カルパース)が、野村証券などに社外取締役の選任を求める動きも表面化。振り返れば、日本のガバナンス改革の出発点は証券不祥事だった。
委員会制度や連結決算、国際会計基準、社外取締役、ガバナンスコード……。約30年にわたって日本は改革を進め、不透明さへの批判をはね返そうとしてきた。
アベノミクス(安倍晋三前首相の経済改革)の一環として始動したガバナンス改革は、信頼回復の取り組みの仕上げにもなるはずだった。東芝問題は海外勢の日本企業・市場への見方を、30年前に引き戻しかねない。そうだとすれば、東芝の報告書が指摘した不適切な総会運営は、市場の観点で見た国益を損なうことにもつながる・・・