大震災対応、政治学からの評価

佐々木毅学習院大学教授の発言から。
3月11日、東京新聞コラム「時代を読む」から。昨年3月11日、大震災直後に書かれた原稿を振り返って。
・・その時の原稿によれば、大震災が政治に活力を取り戻す強烈な一撃を外部から与えられ、日本の政治は何とか動き出すのではないかという点に着目していた。しかし、一年を顧みると、何ら見るべき展開がなかったことに、あらためてあ然とせざるを得ない・・
・・当初から気になっていたのは、日本では基本的な社会インフラが今や民営化され、同時に地方分権がかなり定着を見せている中で、どうスムーズに復興との取組が進むかであった。こうした非常事態においては、政府が通常は認められないような権限を集中的に掌握し、速やかに取り組むというのが、一つの古典的な図式である。日本政府には、こうした方向を探る意図は全く見られなかった。要するに、「平時」のルールに問題を委ねたのである・・。

3月11日、日経新聞書評欄「今を読み解く」から。
・・昨年の3月11日以降、よく言われたのは「安全神話」の崩壊という言葉であった・・非常に単純に言えば、日本は極めて「安全」な社会であり、例えば地震や津波についても他の国々を凌駕する対策が施され、人々の「安全」に対する意識も高いという自負であった・・
・・しかし事故後、原発をめぐって明らかにされつつある現実は、一言で言えば、陰々滅々たる話の連続である・・酷な言い方になるが、「見たくないものは見ない」式の卑俗な心理状態に近い事実ばかりが、この一年続々と明らかにされた。ここに支配しているのは、「安全神話」というよりは、一種の精神的な頽廃現象ではないか。
・・「想定外」の大地震・大津波に襲われるのは不条理であるが、精神的な頽廃現象とは関係がない。問題はこの後者の方である。それは何も原発問題だけの現象ではないのではないか。変容する現実との対面を口実を設けて避け、過去の「想定」にしがみつき、かすかな自己満足の中で課題の先送りに腐心する態度は、この社会に結構広範に見られる傾向ではなかろうか。例えば、こうした精神的頽廃から最も自由でなければならないはずの政治が、同じ病に冒されていないであろうか・・
詳しくは、それぞれ原文をお読みください。