災害時、インターネットの効果

5月31日の日経新聞「大震災と企業」に、ヤフーの井上雅博社長のインタビューが載っていました。
それによると、5月下旬までの2か月半で、ヤフーがネットを通じて集めた募金は、90万人で14億円です。社長自身が、金額の大きさに、間違いではないかと思われたそうです。
また、インターネットは、被災状況や安否確認、支援物資集めにも、大きな力を発揮しました。3月14日のヤフー・ジャパンの総閲覧件数は、23億件。災害時には、平時の15倍にもアクセス件数が跳ね上がるそうです。情報を知りたい人にとって、重要な手段になりました。もちろん、被災地では電気や通信が通じないので、利用できません。また、信用できない情報が出回ったという欠点もありました。

いずれ、今回の大災害についての評価がされるでしょうが、ITはその新しい要素でしょう。阪神淡路大震災は、ボランティア元年と呼ばれました。今回の大災害では、それを教訓に、ボランティア活動がさらに進化しました。それ以外でも、自衛隊や消防の活動も進みました。そして、阪神淡路大震災の時には大きくなかったITの効果、さらには物流やコンビニの役割、企業の社会的貢献が認識されました。

科学者と政策決定の関係

読売新聞は、5月31日から政治面で、「政策決定と科学」を始めました。そこに、イギリスの「政府への科学的助言に関する原則」(2010年3月)が紹介されています。
そのポイントは、政府にあっては、科学的助言者の学問の自由を尊重し、評価する。政策決定が助言に反する場合は、決定理由を公式に説明する。科学的助言者にあっては、科学は政府が政策決定で考慮すべき根拠の一部にすぎないと認識する。助言は、国家安全保障や犯罪助長などの理由がある場合を除き、公開する。そして、双方とも相互信頼を損なう行為をしないことです。
イギリスでこのルールが作られたのは、1990年代BSE(牛海綿状脳症)に関する科学的助言が過小評価されたとして、政府と科学者双方への不信が増したことがきっかけでした。アメリカやドイツにも、同じようなルールがあるそうです。
科学者は助言内容を自由に公表できる、しかし政策決定の際に考慮する一部でしかないことを双方が認識することです。日本でも、今回の原発事故対策や、今後の津波対策に際し、有用でしょう。

学校の保健室の役割変化

古くなって恐縮です。5月5日の読売新聞「くらし・教育欄」に、高橋香代岡山大学教授のインタビューが載っていました。養護教諭の役割変化についてです。
・・以前は病気やけがの処置が仕事の中心だったが、悩みや不安を抱えている子どもに対応する割合が大きくなってきた。アレルギーや感染症、いじめや発達障害などの子どもの健康問題が多様化し、家庭の問題を抱えた子供は増えている。理由もなくふらっと保健室に来る子の数も増えており、養護教諭の役割は重要だ・・

被災者支援説明会延期

今日30日は、仙台で、被災者支援の各種制度説明会を予定していました。しかし、宮城県地方が暴風雨になる予測だったので、県庁と相談して延期しました。対象者が、各市町村の防災担当者です。この人たちには、各地域の警戒に当たってもらわなければならないのです。
地盤沈下した地域も多く、豪雨は心配です。がれきを積み上げてあるので、強風も心配です。また、弱くなった傾斜地や堤防もです。

日常生活での時間の意味

夜、布団に入ってしばらく本を読むのが、長年の習慣で、楽しみです。しかし、この仕事に就いてからは、すぐにまぶたが閉じて、1冊の本をなかなか読み終えることができません。
そのような中でも最近読んだ、木村敏『時間と自己』(1982年、中公新書)に、次のような話が載っていて、なるほどと思いました。先生は著名な精神病理学者です。分裂病者やうつ病者にとっての「時間」から、時間の意味を分析した本です。

・・デジタル時計は、一目で時間が読みとれるから、アナログ時計に比べて格段に便利だろうというのが予想だった。ところが、何となく不便なのである。頭の中でしばらくその時間をぼんやり遊ばせておかないことには、時間の実感が生まれてこないのである。この独特の違和感の実質をよく考えてみると、そこから次のようなことがわかってくる。
われわれが日常、時計を用いて時間を読み取る場合、現在の正確な時刻それ自体を知りたいと思っているのではなくて、ある定められた時刻までに、まだどれだけの時間が残されているのか、あるいは逆にある定められた時刻から、もうどれだけの時間が過ぎたのかを知りたいのである。朝の出勤までにあと何分残っているか・・。
デジタル時計だと現在の時刻しか表示されないから、あらかじめ決められている時刻を示す数値のとのあいだで、引き算をしなくてはならない。アナログ時計の場合だと、二本の針によってそのつど作られる扇形の空間的な形状とその変化から、この「まだどれだけ」と「もうどれだけ」とを、いわば直感的に見て取ることができる。
この「まだどれだけ」と「もうどれだけ」の時間感覚は、二つの数値のあいだの演算によって与えられる時間の量にはけっして還元しつくされない、もっと生命的で切実な心の動きである。たとえば会社に遅刻しそうだとか・・

私の身の回りの時計は、すべてアナログです。出張してホテルで泊まった時、夜中に目が覚めてのベッドの近くの時計を見ると、デジタルの時は困りますね。あと何時間寝ることができるかを知りたいのに、寝ぼけた頭で引き算をしなければならないのです。
次のようなことも、書いておられます(これも要約してあります)。

・・目覚まし時計のような完全に私的な時計による現在時刻の告示でも、結局は学校や職場などの公共時間やそれに基づく統一的な行動に自己の時間や行動を統合するという目的をもっている。共同体の制度的な時間や行動よりも自己の固有の時間や行動を優先させる人にとっては、目覚まし時計の音は有害無益な騒音以外のなにものでもないだろう。しかしそのような人でも、旅行に出かけようと思えば時刻表に載っている列車の発車時刻やそれを知らせるベルの音を無視することはできない・・。
われわれの大多数が外出する時に時計を忘れずにもって出かけ、一日に何回となくそれに眼をやるということの意味も、もう一度考え直さなくてはいけなくなる。時計を見て、もうどれだけの時間が過ぎたとか、まだどれだけの時間が時間が残っているとかいうことが切実な問題になるのは、実は時計の示す時間が私的で個人的な時間であるよりも、公共的な共同体時間だからなのではないのか。われわれが時計を見なければならないのは、人間が社会的な動物であって、共同体の制度を内面化することによってしか、個人の生活をいとなむことができないからなのではあるまいか・・