「復興10年」カテゴリーアーカイブ

五百旗頭真先生を偲ぶ会

今日7月11日は、KKRホテル東京で、五百旗頭真先生を偲ぶ会が開かれました。五百旗頭先生の活躍は多岐にわたり、またそのお人柄で、たくさんの人が集まりました。

先生は国際政治学が専門ですが、阪神・淡路大震災で被災され、防災・復興にも携わられました。東日本大震災の際に復興構想会議の議長を務め、提言をまとめられました。私が携わった復興本部と復興庁は、この提言を元に仕事を進めました。また復興庁では、復興推進委員会の委員長を務めていただきました。会議や現地視察で、何度もご指導をいただきました。

そのご縁で、今日は事務方として参加しました。要人の案内係です。何人か当時の同僚にも、助っ人をお願いしました。久しく会っていない方とも、ご挨拶することができました。
あらためて、そのご功績に感謝するとともに、ご冥福をお祈りいします。

被災地での農業支援

このホームページでしばしば紹介している、原発被災地での、企業などによる営農支援。今年も引き続きやってくださっています。
浪江町では、5月12日に、田植えが行われました。アイリスグループ社員、東京農業大学の学生、いわきFCアカデミーU14・15、福島県12市町村への移住者、それにアイリスオーヤマの大山社長、浪江町の吉田町長も参加してです。

また、新しい取り組みもあります。南相馬市では5月11日に「みらい農業学校」が開校し、市内外の20歳から55歳までの15人が入校しました。この学校は、マイファーム(京都市)が運営し、1年間で、農業法人に就農できるよう支援する研修機関です。「福島民報記事」「マイファームのサイト

それぞれに、ありがとうございます。

朝日新聞「能登へ、首長の教訓」

朝日新聞夕刊連載「現場へ!」、3月4日の週は「能登へ、首長の教訓」でした。大震災当時に苦労された首長さんが出ておられました。

この方々と一緒に、現地の惨状を見て、当初は途方に暮れました。いつになったら、がれきの山が片付くのやらと。もっとも最初は、膨大な避難者の生活支援で、先のことは考えられませんでした。それから、一つずつ片付けていったことを思い出しました。

首長さんの中には、お亡くなりなった方、引退された方も多いです。
あれから13年が経ちます。原発被災地では多くの地域で、まだ復興は緒に就いたばかりです。

追悼、五百旗頭真先生

五百旗頭真先生が亡くなられました。いくつかの報道機関から、発言を求められました。3月8日の朝日新聞では、少し取り上げられました。「五百旗頭さん、残した哲学 「創造的復興」被災者に光/批判すべきは批判
・・・神戸大名誉教授の政治学者で、東日本大震災復興構想会議議長や防衛大学校長を務めた五百旗頭真さんが6日、急性大動脈解離で死去した。80歳だった・・・
五百旗頭さんが復興に携わった被災地を中心に、悼む声が相次いだ。
2011年、東日本大震災の翌月に発足した復興構想会議。議長となった五百旗頭さんは「創造的復興」を掲げた・・・
・・・ともに10年近く復興行政に携わった岡本全勝・元復興庁事務次官は「政権内に防災・減災の哲学を植え付けた」と五百旗頭さんの功績を語った・・・

先生の復興に関しての功績は、復興構想会議提言で、戦後の災害復旧思想を転換してくださったことです。戦後の復旧・復興行政は、元に戻すこと、同じ災害での被害を防止することを基本としてきました。公共施設や住宅は元に戻します。防潮堤を復旧する際には、過去の最も大きな津波を防ぐことができる高さにしました。しかし、千年に一度の津波を防潮堤で防ごうとしたら、とんでもない大きさの防潮堤が必要になります。そこで、防潮堤と逃げるを組み合わせた復旧に転換したのです。防災から減災へです。それによって、高台移転や町のかさ上げを行いました。
これがなければ、東日本大震災からの復興は現地で意見が分かれ、混乱した可能性がある。その点では、復興哲学を転換したという大きな功績です。これは、住民の意見を聞く政治家も、官僚にも難しいことでした。

先生はまた、構想会議の提言をまとめるだけでなく、引き続き復興推進委員になって、その提言が実行されるか見届けてくださいました。何度も、現地を見ていただきました。多くの政府審議会は、提言して終わりが多いのですが、お目付役も果たしてくださいました。
ご冥福をお祈りします。

大月規義記者、東北の「失敗例」継承して2

大月規義記者、東北の「失敗例」継承して」の続きです。復興庁幹部を務めた林俊行さんの反省も載っています。

・・・震災から2年後の13年、復興庁で住宅再建を担当していたときに、苦い経験を味わった。
津波を避けられる高台などに整備する宅地がどれだけ必要か、連日調べていた。岩手県と宮城県で被災した自治体が「必要」とした宅地を積み上げると、計約2万6千戸分に達した。
「多すぎる。手遅れかもしれない」。故郷に戻らないと決めた世帯が反映されているか疑問が湧いた。被災自治体に、本当に必要な戸数を報告してほしいと頼んだ。

すでに自治体は土木系のコンサルタント会社などと一緒に、「立派な」復興計画を作り上げていた。岩手県陸前高田市のように、震災前より人口が増える計画をつくった自治体もあった。
大幅に修正する自治体もあれば、まったく変更しない自治体もあった。1年後、必要な宅地は2県で11%減った。最終的には初期の計画から36%減った。

「それだけ縮小しても、誰も利用しないままの宅地が残っていた」。林さんは19年に再び復興庁に戻った。津波を受けた被災地に、広大な「空き地」ができているのを目にした。
「建設業界にとって復興は『稼ぎ時』のため、コンサルはきれいな復興の絵を描く。自治体がそれを真に受けて計画が一度走り出してしまうと、止めるのは難しい」。自戒を込めて語る。「巨大な公共工事をみると、誰のための復興だったのかと思う」・・・