カテゴリーアーカイブ:ものの見方

世界を覆う「まだら状の秩序」

2020年6月6日   岡本全勝

雑誌「アステイオン」第92号、特集 世界を覆う「まだら状の秩序」。池内恵さんの「すばらしい「まだら状」の新世界」から

・・・冷戦が終結した時、30年後の世界がこのようなものになっていると、誰が予想しただろうか。フランシス・フクヤマは『歴史の終わり』で、自由主義と民主主義が世界の隅々まで行き渡っていく、均質化した世界像を描いた。それに対してサミュエル・ハンチントンは『文明の衝突』で、宗教や民族を中心にした歴史的な文明圏による結束の根強さと、それによる世界の分裂と対立を構想した。
いずれの説が正しかったのだろうか?・・・

・・・むしろ「文明の内なる衝突」の方が顕在化し、長期化している。イスラーム過激派は世界のイスラーム教徒とその国々を、国内政治においても、国際政治においてもまとめる求心力や統率力を持っていない。実際に生じているのは、イスラーム教徒の間の宗派対立であり、イスラーム諸国の中の内戦であり、イスラーム諸国の間の不和と非協力である・・・

・・・これに向き合って、自由主義と民主主義の牙城となるはずの米国や西欧もまた、求心力を失い、内部に深い亀裂と分裂を抱えている。「欧米世界」の一体性と、その指導力、そしてそれが世界を魅了していた輝きは、多分に翳りを見せ始めている。「欧米世界」は、外からは中国やロシアによる地政学的な挑戦を前にじりじりと後退を余儀なくされ、内からは、英国のEU離脱、米国のトランプ政権にまつわる激しい分断に顕著な、揺らぎと分裂の様相を示している。冷戦後に「欧米世界」に歓喜して加わった東欧諸国をはじめとしたEUの周縁諸国からは、あからさまに自由主義や民主主義をかなぐり捨て、ポピュリズムと権威主義の誘惑に身を投げるかのような動きが現れている。
歴史は自由主義と民主主義の勝利で終わったわけでもなく、まとまりをもった巨大文明圏が複数立ち上がって世界を分かつこともなさそうである・・・

ムダを測る基準、目的と期間

2020年6月1日   岡本全勝

5月29日の朝日新聞オピニオン欄「それって無駄? 新型コロナ」、西成活裕・東大教授の発言から。

・・・「この世に無駄なものなど何もない」という人がいれば、「この世は無駄だらけだ」という人もいる。2人の何が違うのか。そんな「無駄の謎」を研究してきました。
「これは無駄なのか」の定義は、実はとても難しい。
判断するためには、「目的」と「期間」という二つの項目を明確にする必要があります。目的を定めなければ効果を評価できないし、期間を決めなければ「どんなことも、いつかは役に立つ」ということで、すべてのことが無駄ではなくなってしまいます・・・

・・・企業の場合は、社長が「いつまでに何を達成する」と決めて、社員はその目標に向けて動く。比較的、無駄をなくしやすい構造ですが、一般社会では簡単ではありません。社会全体が同じ目的に向かうよう統制はできませんし、長期的な視点の人もいれば、今が大事な人もいます。だから国家の政策から家庭レベルまで、無駄をめぐってさまざまな争いが起きているのです。

今回、特に難しさを痛感するのが、予測不可能な事態に対する備えです。医療物資や人員、病床数などさまざまな不足が発生していますが、企業が存続をかけて、いつ起こるかも分からない危機に備えて余剰在庫を抱えることは、「目的」と「期間」に照らしあわせても不可能でしょう。だから、医療態勢や災害対応など生命に関わることは、公的機関がセーフティーネットになる必要があります。
公的機関に、そんな余裕はない? いいえ、もし新型コロナが「100年に1度の危機」なら、「期間」を100年に設定してビジョンを描けば、平時は過剰と思える備えも、簡単には無駄という結論にならないはずです。結果的に捨てることになるものがあったとしても、「国民の生命を守る」ということが、国家の最優先の使命、つまり「目的」。それが、社会で共有される必要があります・・・

日経新聞「美の十選」

2020年5月18日   岡本全勝

日経新聞最後のページ文化面に、「美の十選」という欄があります。いつも楽しみにしています。
ある角度から、10の絵画など美術品を紹介する欄です。例えば最近は、「経済で見る名画」でした。
こんなのが、美術を見る切り口になるとは。毎回の切り口が、考えてあります。女性像はわかるにしても、経済、浪速、服装など、こんな見方もあるのだと感心します。

「自己責任の時代」

2020年5月14日   岡本全勝

ヤシャ・モンク著『自己責任の時代 その先に構想する、支えあう福祉国家』(2019年、みすず書房)を読み終えました。連載「公共を創る」で、現代の自由と孤独を考えています。また別途、原発事故後の責任を考えていて、この本を見つけました。
この本は、政治哲学として自己責任を考えます。副題にあるように、福祉国家での自己責任の問題です。門外漢の私には、やや難解でした。前半は私なりに、理解しました。

社会福祉の対象になったときに、このような支援を求める状態になったのには、学校時代に勉強をサボったから、まじめに働いていないから、生活能力が不十分なのに子どもをつくったからとか、本人に責任があるのではないか。生活保護などの対象となる際に、本人の帰責事由のあるなしが問われるのです。
お互いが助け合おうとして始まった福祉制度が、困っている人の責任を問うのです。自業自得、身から出たさびと、突き放すのです。

かつて、困った人がいる場合に使われた「責任」は、その人を救う責任が国や周囲の人にあるという意味においてでした。社会の側に責任がありました。ところが、社会保障制度が完備されると、国や周囲は責任を果たしたので、問題があるならその本人に責任があると、責任の主体が反転しました。
これは、社会福祉制度の逆説です。恵まれない人への「施し」から、社会保障制度による「支援を受ける権利」へと転換し、さらにその受給権の水準が高くなると、このような反転が起きました。

鎌田先生解説、ウェゲナー著『大陸と海洋の起源』

2020年4月20日   岡本全勝

鎌田浩毅先生が今度は、ウェゲナーの『大陸と海洋の起源』(2020年、講談社ブルーバックス)の解説を書かれました。本文は、竹内均先生が1975年に翻訳されたものです。
大陸が移動するという話は、現在ではみんなが受け入れています。しかし、ドイツの科学者ウェゲナーが1915年に原著を出版したときは、荒唐無稽な説として相手にされませんでした。半世紀後に認められ、復活したのだそうです。ただし彼は、1930年に亡くなっています。

鎌田先生によると、この本は 科学の古典なので、「古典らしく」とても読みにくい本だそうです。そこで、先生の解説が役に立つのです。P348に、科学の古典の読み方が指南されています。
科学の古典を、私たちは常識として受け入れていますが、その多くは、当時としては通説に刃向かう「異端」でした。なぜ、彼は通説を疑ったのか。そして、どのようにして通説を覆したのか。そこには、ドラマと苦労があります。コペルニクスもガリレオも、ダーウィンも。

武田信玄は「動かざること山のごとし」を掲げましたが、「造山運動」という言葉があるように、地球科学者は「ゆっくり動くこと山のごとし」と考えているのだそうです。信玄公も私たちも、1年とか10年の単位で、山を見ていますからね。
ウェゲナーの大陸移動説から、プレート・テクトニクスという「地球科学の革命」が誕生したこと、さらに地球科学は発展していることも、解説されています。20世紀の地学、いえすべての地学の中での、革命的発想だったのですね。