カテゴリー別アーカイブ: 生き方

生き様-生き方

人生の下り方を考える

7月28日の日経新聞「私見卓見」、石飛幸三・世田谷区社会福祉事業団顧問医師の「人生の下り方をデザインせよ」から。

医療と介護は人々の人生を側面から支えるという意味においてはひとつである。しかし、一般に認識されているのは、老いて生活に支障が生じるようになったら介護制度を、病気になった時は医療を受けるという使い分けだ。この場合の病気の中には、老化にまつわる諸症状まで含まれている。
私は医療と介護の両方を長年経験してきた者として、この認識を見直してほしいと願っている。なぜなら、この認識のせいで、本来は穏やかであるはずの老いの終末が苦痛の多いドタバタに変わりかねないからである。

かつて私はがんを取り除いたり、古くなった血管をつぎ直したりしてきたが、「部品を修理しているにすぎない」と思うことが増えた。それをはっきりと認識したのは特別養護老人ホームの常勤医となって、私と年齢の変わらぬ老いて認知症もあり、食べられなくなっていく入所者の健康を見守る役を与えられてからである。
病んだ器官や組織に強い薬を使ったり、新品の人工パーツに置き換えたりしたところで、身体は老いて既にガタがきている。となると、手術や治療は回復を約束してくれるどころか、苦痛や負担を無駄に与えることになる。過度な医療が責め苦となって身体は悲鳴を上げていないだろうか。「病気になったらすぐ医療」という認識を改め、老いていく身体の声にもっと耳を澄ませてほしい・・・

・・・老いは自然の摂理で、治療で元には戻せない。いよいよ終わりが近づいてくると食べられなくなり、管で栄養を入れても身体はそれを受けつけなくなる。だが、慌てることはない。それは終点へ向かって坂を下っていく自然の経過なのであり、穏やかな最後を迎えるための準備をしているのである。やがて眠って、眠って、そして穏やかに旅立つ。自分らしく最後の坂をいかに下っていくか。下り方を自分でデザインする文化を超高齢多死社会の日本に求めたい・・・

早生まれは損か

7月2日の朝日新聞オピニオン欄に「早生まれは損?:1 学力では」が載っていました。

・・・同級生に比べて体が小さく、成長が遅い――。1月から4月1日までに生まれた「早生まれ」の子は平均して、学齢期にそんなハンディがあるといわれます。当事者にはどのような苦労があり、どんな配慮が必要なのでしょうか。まずは学力面を中心に考えます。
3月生まれの生徒が入学した高校の偏差値は、同じ学年の4月生まれより4.5低い。3年前、東京大学大学院の山口慎太郎教授(労働経済学)らがそんな研究を発表し、話題を呼んだ。その後、早生まれのハンディを小さくするための議論や新たな施策は生まれたのか。話を聞いた。

埼玉県のある自治体のデータを用い、統計的な誤差を補正した上で4月生まれと3月生まれで入学した高校の偏差値を比べると、4.5の差がありました。
ただ、学力差そのものは学年が上がるごとに縮まっていた。「埼玉県学力・学習状況調査」の4年分のデータを用い、県内の公立小中学校に通う小学4年~中学3年の延べ100万人超のデータを分析したところ、どの学年、どの教科でも、先に生まれた子ほど成績が良い傾向が見られたが、学年が上がるにつれて差は小さくなっていました。
研究では、学力の差もさることながら、「感情をコントロールする力」や「他人と良い関係を築く力」といった非認知能力の差が、学年が上がっても縮まらないこともポイントでした。

学校外での活動を分析すると、中学3年の早生まれの生徒は、学習や読書の時間、通塾率がいずれも高いという結果が出ました。一方、スポーツや外遊び、美術や音楽に費やす時間は少なかった。これは、保護者が自分の子どもに何らかの遅れを感じて塾が優先され、非認知能力を伸ばすとされるスポーツや芸術系の習い事はしなくなるということだと思います。つまり早生まれの子どもたちは学力面では努力で差を縮めているが、非認知能力を伸ばすような活動が不足しているということです。
非認知能力の中でも、一つの仕事をきちんとこなし、達成を目指そうとする「誠実性」は、大人になってからの労働収入と強い相関があると知られています。30~34歳の所得を比較した先行研究によると、早生まれのほうが約4%低いという結果がある。非認知能力を伸ばす活動の不足が、大人になってからの所得差につながっている可能性があります。

「早生まれの不利」は、記事になるたびに「面白い」と消費されるだけで、教育制度のあり方を考えようということになりません。これまで手がけてきた研究の中で、最も政策に反映される気配がない。生まれ月に基づいた配慮は、障害者に対する合理的配慮と同じだと思います。しかし、結局は保護者や本人が不利をどう克服するかという話に終始しがちです・・・

私は1月生まれ。家族や親族にも、2月、3月生まれがたくさんいます。保育園や小学校1年生では、4月生まれの子とは大きな差がありました。

川北英隆先生のブログ

川北英隆先生のブログ、興味深い話や勉強になる話を、書き続けておられます。前にも紹介したことがあります。「日本的思考パターンへの苦言

先生の専門である投資の話「投資にうまい話は絶対ない」や社会批評「銀行窓口の変貌に驚く」も勉強になりますが、なんと言っても楽しみは山歩きの記です。精力的にいろんな山を歩いておられます。

本格的な高山の登山ではなく、近場の歩きやすい山のようです。京都の近くに、こんなところがあるのだと驚きます。私にも、行けそうですが。「湖南アルプス堂山
山の写真とともに、花や木の写真が楽しみです。例えば「虚空蔵山の花」。
京都も暑いそうです。

突然の病、死と向き合うには

6月14日の朝日新聞夕刊「こころのはなし」、鎌田東二・京大名誉教授の「突然の病、死と向き合うには」から。

 最近、記者(42)の周りでは病気で手術を受ける人が増えた。30、40代のがんも多く、ひとごととは思えない。突然、死を意識せざるを得ない病が降りかかったとき、どう向き合ったらいいのだろう。心の痛みを対話などで癒やすスピリチュアルケアの専門家で、宗教学者の鎌田東二(とうじ)・京都大名誉教授(72)は自身もステージ4のがんが見つかり、治療を続けている。京都の自宅を訪ねた。

――スピリチュアルケアの専門家として、どんなことを考えましたか。
「がんを受け入れて生きる」とは、どういうことか考えました。アメリカの精神科医のキューブラー・ロスが1969年、死にゆくプロセスを科学的にとらえています。
病を告げられてから五つの葛藤があり、最初は「否認」です。頭では理解しようとしても、何かの間違いだと否定します。次に「怒り」です。もっと悪いことをしている人はいるのに、なぜ自分が、と考えます。
3番目は「取引」です。信仰心がなくても神仏にすがり、これをやり切るまで生かして、と取引します。4番目が「抑うつ」です。もうだめ、神も仏もいない、とあきらめの気持ちになります。
最後が「受容」です。死は自然なことと考えられるようになり、静かな時間を過ごすことができます。

――ご自身はいかがですか。
宗教や死生観を50年近く研究し、普段から死を意識してきました。そのせいか、5段階目の「受容」が強いんです。いきなり「受容」したという感じです。
それでも健康を失うと、絶望したり、うつになったり、負の感情が連鎖します。私は合併症による2週間の絶食療法がきつかった。このまま体力が落ちて死ぬかもしれない。治っても今までのように動けるのか。患者が抱く不透明感に直面しました。
このとき、詩を作りました。自分のなかに起こる心の叫びを言葉にすることで、自分自身を支えることができました。
生きていれば必ず逆境が訪れます。逆境は暗く長いトンネルです。しかし、トンネルは必ず抜けられます。抜けたら、大きな光が与えられ、その人の人間性に強い力が加わります。
ただ、信仰心のある人のほうが逆境に強いことは間違いありません。

近藤和彦先生、自宅の改装

近藤和彦先生のブログを紹介します。先生が雑誌『図書』に連載されている「『歴史とは何か』の人びと」は、楽しみにしています。今日紹介するのは、そちらの方ではなく、「〈リフォーム〉ほどではないけれど」(6月3日掲載)です。

・・・じつは現在の集合住宅に入居して、この春でちょうど20年。同居人の構成も変化したうえ、いろいろなモノが貯まり堆積して、自宅がまるで考古学遺跡のようになってしまいそう、と心配してくれた娘の提言で(準備のメールとZoom会議をへて)、4月から夏まで数次に分けて、部屋の使いかたを多少とも転換中です・・・
・・・久方ぶりに床のフローリングがしっかり見えるのは、感動的です!
(とはいえ、ぼくの書斎、図書・ファイルにかかわることについては、さすがの娘も関与を諦め/謝絶し、お父さんが自分で考えてやって、と引導を渡されました!)・・・

同じように荷物と本に埋まった我が家を見て、身につまされます。私は、いつになったら着手するのやら・・・。