カテゴリーアーカイブ:社会の見方

日本の教育改革、この国のかたちの改革

2018年9月16日   岡本全勝

日本の教育改革」(9月15日)の続きです。
この教育改革は、重要であり、難しい課題です。
日本のこれまでの「この国のかたち」は、欧米先進国に学ぶことであり、追いつくことでした。その基礎となったのが、教育です。教師が黒板に書くこと・教科書に書かれたことを生徒が覚えることが、日本の教育のかたちでした。生徒が自分で考える力をつけることではありません。

決められたことを覚える授業は効率が良く、一定の「品質を持った」日本人を育成できました。戦前なら「良い兵隊」、戦後なら「良い労働力」を作ることに適していたのです。
他方で、生徒は覚えることが上手になり、考えることが下手になります。

日本が先進国に追いついたことで、決められたことを覚えるだけでなく、自分で考えることが必要になりました。
それは、日本社会、行政、企業においてとともに、日本国民にも必要になったのです。すると、教育の目的・意義が変わらなければなりません。基礎は覚えつつ、自分で考える力をつけなければならなくなったのです。
しかし、150年間続いた「教育のかたち」「国民育成」は、日本中に、そして社会の隅々まで染み渡っています。これを変えるのは、部分的な改革では達成できません。

決められたとこを覚えることは、生徒にとって楽であり、決められたことを教えるのは、教師にとって楽です。それに対し、自分で考える授業は、一人一人考えることが違うので、生徒も教師も負担が増えます。そして教育としては、効率が悪くなります(効率という概念が当てはまらないのでしょう)。例えば、試験問題と採点基準を考えてください。

私も、大学の講義で直面しています。大学入試まで、ひたすら覚えることに努力した学生たちに、自分で考えること教えなければなりません。学生たちに「教育には2種類ある。高校までは教科書を覚えるのが教育。大学に入ったら自分で考える、それを助けるのが教育」と教えています。それを「高校まではティーチ、大学はコーチ」と表現しています。
レポートはもちろん、試験も記述式です。覚えるべきことを書かすなら、採点も楽なのですが、記述式は採点が大変です。
この項続く。

日本の教育改革

2018年9月15日   岡本全勝

教員と校長の違い」(9月10日)で紹介した、8月29日の読売新聞、アンドレアス・シュライヒャーOECD教育スキル局長のインタビューでは、次のような内容も語られています。

・・・次期学習指導要領では「主体的・対話的で深い学び」を教育の中核に位置づけており、OECDの考え方に沿った改革といえる。これまで知識の受け手だった生徒たちが知識の作り手に変わるよう、主体性を育成するものだ。
科学技術の発達により、生徒たちはいまや教師と同じ知識を簡単に得ることができる。教師の主たる仕事は、生徒への知識の伝達ではなく、生徒の良いコーチ、良い相談相手、良い評価者、学習環境の良い設計者になることだ・・・

9月6日の朝日新聞オピニオン欄「学ぶ場所 学校だけ?」で、永田佳之・聖心女子大学教授が、次のように語っておられます(この記事は、フリースクールについてのものです)。
・・・日本の小学校や中学校では、学習指導要領に基づき、大勢の子どもに一方的に教える一斉授業の光景が長らく見られました。しかし価値観や教育のニーズが多元化した現在、この教育システムには様々なほころびが生じています。
民間会社の調査では、自身の特性として「創造的だ」と考える10代の子どもたちは、日本は欧米より大幅に低くわずか8%でした。内閣府の調査でも、自己肯定感や「社会を変える力が自分にある」と考える子どもの割合は軒並み海外より低い。大人が期待する成果に応えるよう育てられることが一因かもしれません・・・

表が付いています。自分の特性で選択肢から「創造的」を選んだ人の割合です(アドビ社調べ)。中学・高校生では、日本は8%、イギリス37%、ドイツ44%、アメリカ47%。教師では、日本2%、イギリス27%、ドイツ26%、アメリカ25%です。
この項続く

戦国大名と分国法

2018年9月13日   岡本全勝

清水克行著『戦国大名と分国法』(2018年、岩波新書)が面白かったです。
日本史で少し習った、戦国大名がつくった法律=分国法についてです。この本を読んで、概要がわかりました。行政法+刑法+民法+商法のようなものですね。その内容は、本書を読んでいただくとして、もっと興味深かったのは、その定めの効力です。

それまで、制定法としては、律令や御成敗式目がありました。時代の変化と地域の実情に合わせて慣習法ができ、それらも取り込んで「国内法」をつくった意義は大きいでしょう。ところが、有力大名がみんな、分国法を作ったわけではありません。
そして、分国法の内容やなり立ちを見ていくと、大名が「強力な支配権で法令を発布した」のではなさそうです。部下に突き上げられて「協約」として結ばれたもの(マグナカルタのようです)や、部下が言うことを聞かないのでしびれを切らして定めたものもあったようです。
そしてなにより、結城氏、六角氏、今川氏、武田氏のように、その後しばらくして滅びた大名、伊達稙宗のように息子に追放された大名と、決して権力基盤が盤石ではなかったのです。逆に、だからこそ、制定法を作ったのかもしれません。

さらに、これら法令がどこまで守られたか。それも、判然とはしません。文書を見て、「立派なものができた」と考えるのは、早計です。
そのような、ものの見方を教えてくれる名著です。私は、そのような観点から、この本を読みました。

仲間うちの投稿

2018年9月9日   岡本全勝

9月5日の朝日新聞連載「平成とは」「仲間うちの投稿欄、部数増」から。
・・・大島さんは近くに本社がある産経新聞社が発行する保守系の論壇誌「正論」の元編集長だ。新聞の記者などを経て編集長に就任したのは1990(平成2)年。冷戦が終わって米ソ対立という大テーマが後退。苦戦を強いられたオピニオン誌をどう活性化させるか大島さんは真剣に考えていた・・・
・・・まず目をつけたのが、雑誌の最後にあった1ページの読者投稿欄だ。届いた投書を読んでいると「読者の書くものが面白いことに気づいた。その知恵をもっと拝借しようと思った」。
「読者の指定席」と名づけて投稿欄を6ページに増やしたのを皮切りに、93年には投稿に編集者が一言感想を添える欄「編集者へ 編集者から」を新設。2000年には読者の疑問に編集者や他の読者が答える「ハイ、せいろん調査室です」も追加した。「自国の歴史と先祖に誇りを持って生きるのはすばらしいことですね」「国旗を購入したいがどこにも売っていない。日の丸は簡単に手に入りません」……。次々と舞い込む封書やはがきを紙袋いっぱいに詰め込み、自宅に持ち帰って目を通した・・・
興味深い発言もあります。
・・・異論にも耳を傾けようと「朝日新聞的な意見」を載せたこともあったが、読者は「それは、他で読めばいい」と反発した・・・

・・・最近では敵を探そうとする流れも強固になっている、とメディアコンサルタントの境治さんはいう。データ会社を通じ、在京キー局の情報番組などを調べたところ、森友学園問題や日大アメフト部のタックル問題など一つの話題を集中的に伝える傾向が、ここ数年で強まっているのを確認したという。
「『悪役』が誰かわかりやすい話題が好まれる。常にたたける相手を探し、徹底的に打ちのめす傾向が社会的に強まっているのではないか」
水島久光・東海大教授(メディア論)は、平成は人々が「味方集め」に奔走した30年だったとみる。「SNSの『いいね!』もそうだが、誰かからの評価を求めてさまよう人々であふれ、ネットを中心にその傾向が加速している」・・・

他者との対話を拒否し、身内だけで盛り上がる。寛容性が低くなり、排他性が高まっています。以前からその傾向はあったのでしょうが、インターネットの発達がその拡散を助長します。
あわせて、多くの人は「話を聞いて欲しい」「意見を言いたい」。しかし、「反論されるのは嫌だ」「いいねと言って欲しい」。「私は正しい。あの人たちは間違っている」のです。友人、家族、職場でも同じです。

仏像と近代日本人

2018年9月5日   岡本全勝

多川俊映著『仏像 みる・みられる』(仏像を見る、仏像に見られる)に触発されて、碧海寿広著『仏像と日本人-宗教と美の近現代』 (2018年、中公新書)を読みました。
明治時代から現在までの、日本人と仏像との関わり方を、分析した本です。切り口が鋭く、よく整理されていて、名著だと思います。仏像の分析ではありません。仏像の社会学と言ったら良いでしょうか。仏像や古寺ファンの方には、お勧めです。

信仰の対象だった仏像が、美術品となっていきます。写真となって、流布します。それは、御札(おふだ)ではなく美術品としてです。そして、一部知識人の鑑賞の対象から、一般人の観光の対象になります。修学旅行の定番となります。お寺ではなく、博物館で見ることが多くなります。
信仰の対象であった時代には、秘仏として、参詣者が見ることができない場合でも、仏さまは仏さまでした。見ることができないほど、ありがたいものです。しかし、美術品、観光の対象となると、見ることができない仏像は、対象となりません。

しかし、私たちは、お寺で仏像を見た時、単なる彫刻に対してとは違った思いを抱きます。ミロのビーナスやダビテ像を見る時とは、違った気持ちになります。
仏像を見る、仏像に見られる2」の記述で、私たちは仏様の目を見て、仏様の目を通して自分を見ると述べました。仏像写真家として有名な土門拳さんと、入江泰吉さんの言葉が紹介されています。

・・・ぼくは被写体に対峙し、ぼくの視点から相手を睨みつけ、そして時には語りかけながら被写体がぼくを睨みつけてくる視点をさぐる・・・土門拳、p159

入江泰吉さんが秋篠寺で伎芸天を撮影しようとした際のことです。ライトでは見えない仏様の表情が、ろうそくの明かりの前に現れます。
・・・そこでわたしは、灯明やローソクの明かりで仏像を仰ぎ見ながら祈りをささげた昔の善男善女の目にこそ仏像本来の慈悲のすがたが映ったのではないかとかんがえました・・・入江泰吉、p164