カテゴリーアーカイブ:社会の見方

実用社会学への期待

2022年8月17日   岡本全勝

連載「公共を創る」で、社会を見る際に公私二元論ではなく、官共業三元論で見ることを提唱しています。官は政治行政で二元論での公で、業は市場経済で二元論での私です。共は、狭い意味の社会であり非営利の世界です。この三つが、私たちの暮らしを支えています。

官については、政治や行政がどうあるべきか、政治学や行政学があります。業についても、経済学や公共経済学で、市場がどうあるべきか、政府はどのように介入すべきかについて大きな蓄積があります。
ところが、共(狭義の社会)については、私たちの暮らしをよくするためにどうあるべきか、政府はどのように関与すべきかを総合的に議論をしたものはないのです。少子高齢化、格差、孤独、子どもの貧困などについて、社会学は社会の問題を発見し、提起してくれます。そのような個別問題は扱うのですが、それらをまとめて議論した教科書や概説書はないのです。

社会学が、哲学のような深遠な議論をするものから、格差や孤独など身近にある具体問題を扱うものまで、様々なものを含んでいます。その全体像を系統的・分類的に示すことは難しいでしょう。私が期待するのは、社会学のうち「実用の学」と思われるものを集めて、分類し、それらを全体的に議論することです。
政治学、経済学(の一部)が「実用の学」であると同様に、社会学にもそれを期待したいのです。「公共社会学」という学問分野の考え方もあるようです。それが発展することを期待します。

依存こそ人間の強み

2022年8月17日   岡本全勝

日経新聞夕刊連載「人間発見」、熊谷晋一郎・東京大学准教授の「気軽に依存しあう社会に」から。

第1回(8月8日
私とはいったい何者なのか。生きづらさを和らげる解は自分自身の探求にあるのではないか。生まれてすぐ脳性まひを患い、障害を持ちながら小児科医に。東大で「当事者研究」という学術分野を切り開いた。

1977年生まれで、「障害とは何か」という思想の大転換を経験した世代です。
かつて障害とは障害者自身の問題であり、訓練や治療で社会適応を目指すべきだと考えられていました。60年代以降の障害者運動や81年の国際障害者年を機に、障害とは多数派である健常者向けに最適化された社会環境と、少数派の障害者とのミスマッチで生じる不利益だとの考えが広まりました。障害とは体の「中」に存在するのではなく、「外」の環境によって発生するということです。

第4回(8月12日
自身の抱える問題を観察し、説明する当事者研究は、もともと北海道浦河町にある社会福祉法人「浦河べてるの家」で01年に始まったものです。幻覚や妄想を持つ精神疾患の当事者が、支援者や仲間にサポートされながら生み出した「自分助け」の方法です。
研究に決定的な発見をもたらしたのは、薬物依存症からの回復支援施設「ダルク女性ハウス」との出会いでした。アルコールや薬物といった物質に依存するのは、裏を返すと、心に傷を負って人間不信になり、他人に頼れない状態のなかで生き延びるためだと気付かされました。近代の社会は自立や自己決定を善としますが、ヒトという種は元来1人では生きられず、依存しあってギリギリ生命を保ってきたのです。
依存は人間のお家芸であり、強みです。愚痴ったり、できないことを手伝ってもらったりするのが当たり前の姿です。自立とは依存先を増やすことだ――。目からうろこでした。

「自己責任」かざした自分が弱者に

2022年8月15日   岡本全勝

8月1日の朝日新聞「元首相銃撃 いま問われるもの」、中島岳志さんへのインタビュー「「生きづらさ」の原因求め、誰かを敵視」から。

――生きづらさを抱えている人たちのために必要な政策は何ですか。
一つは「リスクを社会化」していくこと。セーフティーネットを強化して、所得の再配分機能を高めることも必要です。もう一つは「社会的包摂」。孤立している人を社会のなかに包み込んでいくことです。
ただ、政策論だけではやはり限界があります。人間観を根本的に見直さないといけないのではないかと思っています。山上容疑者を含め、いまの僕たちは、自己責任という呪いのような人間観にとらわれていると考えるからです。

――どうしたらいいのでしょう。
山上容疑者のものとみられるツイートには、こうあります。「何故かこの社会は最も愛される必要のある脱落者は最も愛されないようにできている」。彼にも愛されたい気持ちがきっとあった。でも、弱さはマイナスの価値であると思いこみ、助けを求められなかったのでしょう。
まず弱さを認めること。誰かを頼っていいし、泣きついてもいい。自分の弱さを受け入れるところから、人と人との連帯の可能性が生まれてくると思います。

男らしさが生む中高年男性の孤立

2022年8月14日   岡本全勝

8月2日の日経新聞「コミュニケーション不全の時代」、本田由紀・東京大学教授の「中高年男性の孤立 注視を」から。

・・・図は60歳以上の高齢者が対象だが、同様の傾向は年齢層を広げても見いだされる。ISSP(国際比較調査グループ)の17年の日本調査では、「悩みごとを相談できるような友人の数」を質問している。社会学研究の村田ひろ子氏の分析によれば、そうした友人が「いない」比率を見ると、男性の場合20代以下、30代、40代では順に12%、14%、23%だが、50代、60代、70代以上では順に37%、36%、53%と、中高年齢層で明確に多い。
女性では、「いない」比率が最も多い70代以上であっても27%にとどまり、60代で19%、より若い層では10%未満であることと比較しても、日本の、特に中高年男性の社会関係資本の少なさが突出しているといえるだろう。深刻な孤立であると言い換えてもよい。

社会的に孤立していても、充足感が得られていれば問題はないかもしれない。しかし同調査の40代、50代の男性において、「悩みごとを相談できるような友人の数」が2人以上の場合には「生活に満足している」割合は65%であるのに対し、1人以下の場合は46%と、約20ポイントの開きがある。
また、後期高齢者を対象とする調査データを分析した実践女子大学の原田謙教授の研究においても、特に男性において、友人数が少ない場合にメンタルヘルスや生活満足度が下がることが検証されている。さらには、悩みごと相談ができる友人が「いない」場合に、「排外主義的」な意識が高まるという計量分析結果を、成蹊大学の米良文花氏が示している。
ここからも、悩みごとを相談できるような友人が「いない」ことは中高年男性にとっても否定的な影響をもつことが推測でき、しかも「いない」比率が日本の中高年男性では相当程度高いのである。

さて、先のISSPの結果を考える上で重要なのは、「友人」ということに加えて「悩みごとを相談できる」という設問のワーディングである。「人前で弱みをさらけだしてはならない」ということは、日本に限らず、国内外に共通する「男性性」の重要な構成要素とみなされる。友人数の多寡には、学歴や就労形態、家族構成、団体所属、幼少期の経験など様々な要因が影響しているが、それらに加えて「男らしさ」の規範が、中高年男性の社会関係資本形成を阻害していることが容易に疑われる。
実際に、電通総研が21年に実施した「男らしさに関する意識調査」の結果では、「自分が抱える心配や不安、問題についてたくさん話す男性は、真に尊敬されるべきではない」という項目を「とてもそう思う」もしくは「そう思う」と答えた比率は、18~30歳と31~50歳ではそれぞれ34.6%、33.5%だが、51~70歳では42.3%と多くなる。
「私の両親は、本物の男は緊張したり怖いときでも、強く振る舞うべきだと教えた」割合についても、同じく若い方から順に27.9%、27.7%、35.2%と、中高年齢層でのみ高い。そして「人生の個人的・感情的な問題について気軽に話せる友人がいる」割合は、65.0%、52.0%、48.6%と、高い年齢層ほど直線的に下がるのだ。
同調査では、「男らしさ」の規範と社会関係資本の量との関係を直接的に分析しているわけではない。あくまで年齢層を媒介項とした間接的な関連ではあるが、日本の中高年男性における社会関係資本の少なさや性別分離の背後に、「男性性」の規範の問題が根強くあることの確実性は高いといえそうだ・・

・・・われわれが関心を払うべきは、これまで述べてきた日本の男性、特に中高年男性に見られる特異性である。「男らしさ」に縛られ、コミュニケーションや人間関係から疎外されがちな日本の中高年男性たちは、日本が抱えるもう一つの巨大な「ジェンダー・ギャップ」だといえるだろう・・・

現在日本の保守、終わった進歩幻想

2022年8月12日   岡本全勝

7月28日の日経新聞「シン・保守の時代・下」、吉田徹・同志社大学教授の「終わり迎えた進歩幻想」から。

先進国では1970年代から階級意識が薄れていき、政治の対立軸が富の分配から個人の生き方に関する意識の相違へと変化した。90年代にはそれまでの左派がリベラルと称するようになり、自己決定権の重視が掲げられるようになった。
一方、今の日本で「保守」と呼ばれる人たちが守ろうとしているのは「失われた平和な20世紀」だと私は考える。
20世紀後半は人類史の中でも特殊な時代だった。第2次世界大戦後、国境が引き直され、先進国では豊かな中間層が多数派になった。しかし、石油危機を経てリーマン・ショックがとどめとなり、豊かな時代は幕を下ろす。少子高齢化に転じ、国境を越えた人の移動で同質的な社会も失われた。先進国の多くで「子供世代は自分たちほど豊かにならないだろう」という意見が多数派になった。進歩幻想が終わりを迎えたのだ。だからトランプ政治は喪失された「偉大なアメリカ」に訴えかけたのだった。
没落と喪失の恐怖は現代日本の保守的な態度にもつながっているように思う。五輪や万博、令和版所得倍増計画。ノスタルジーを持ち出して未来を投射しようとしている。「保守すべきものがない保守」といえよう。
幻想にとらわれているのは、日本国憲法が前提とした世界が崩壊しているにもかかわらず、護憲に固執する古いリベラルの側も同じだ。保守、リベラルともに内実が失われているからこそ、有権者は政治と生活が結びついていないように感じるのだろう。現状が変わらなければ、将来には悲観的にならざるを得ない。

半面、若年層の間で強まっているのは現状の権威を認め、従うことを良しとする権威主義化の傾向だ。松谷が「右傾化なき保守化」と呼ぶこの現象は、若者の反権威主義化が進む他の先進諸国の例とは対照的だ。
背景にあるのはメンバーシップ型の労働市場の存在だろう。日本では正社員と非正規社員の間に大きな溝があり、失敗すれば再チャレンジは認められない。安倍政権が支持されたのも就職率が良かったからだ。競争社会を生き抜くために強い立場の人間に従うことは、彼らにとって合理的な生存戦略ともいえる。

日本の若年層はデモやストライキといった政治参加の経験割合が低い。要因の一つは自己肯定感の低さにある。ゆえに、日本は先進国の中でも20代の自殺率が高い。自己肯定感が低いと、大多数の意見や共同体のあり方を否定しきれない。失敗や試行錯誤を許してこなかったツケともいえる。

日本社会は勝ち負けを判断する尺度の種類が少ない。人生にはいろいろな尺度があってしかるべきで、それが多様性の本来の意味だったはずだ。社会のモデルを再考し、自分が受けた恩恵を後世に再投資していく循環を作っていく必要がある。