カテゴリーアーカイブ:社会の見方

聖者が街にやってくる?

2026年1月16日   岡本全勝

「聖者が街にやってくる」という歌、ご存じですよね。
Oh, when the saints go marching in・・・
中学生の頃でしたか、私にもわかる英語です。黒人の歌手が迫力ある歌い方をするので、印象に残りました。表題を見て、キリスト教の偉いお坊さんが街にやってきて、信者がついて歩くのだと思っていました。

しかし、それにしては軽快なメロディーだなあとも、思っていました。インターネットで調べたら、わかりました。ウィキペディアには、次のようにあります。
「原詞は聖書の黙示録を踏まえ「最後の審判で聖者が天国に入って行くとき、自分も一緒にいたいものだ」と歌うのもので、「聖者が街にやってくる」訳ではない」
納得。それにしても、とんでもない誤訳ですね。

と書いたのですが、次のような反論がありました。そんな訳詞があるのですね、知らなかった。
・・・「聖者の行進」の「マーチングイン」をうまく生かした「街にやってきた」という訳は、誤訳ではなくて意訳というべきだと思われます。
「黒人霊歌」はほぼ我が国における「御詠歌」の役割を果たしていたものと思うのですが、南部の黒人教会(白人たちとは別の教会)でお墓までの葬送曲として謳われていた「聖者の行進」(「この世の終りの最後の審判で、星が墜ち、月が血のように赤くなるとき、その(天国に行ける)メンバーの中に我らを入れたまえ」これは暗い御詠歌)を、ルイ・アームストロングがコミカルな歌(今のリズミカルな歌)に替え、さらに作訳詞者・小林幹治さんが、黙示録を読んだこともないわたくしどものために明るいみんなの歌みたいな歌(「星と歌の国から聖者が街に来た、聖者を迎えようぼくらの街に」)にしてくれたらしいです・・・

若者が戻りたくなる「寛容な故郷」に

2026年1月16日   岡本全勝

2025年11月26日の朝日新聞「若者が戻りたくなる「寛容な故郷」に」から。

・・・人口減少が進み、現役世代が今の8割に減る2040年の「8がけ社会」。高齢化も進むなかで、地元を出た若者をどう呼び戻すか、各地の自治体が頭を悩ませている。誰もが答えを見つけ出せないなか、「寛容性」が解だとライフルホームズ総研(東京)の島原万丈所長は説く。その真意を聞いた。

―若者が故郷に戻らない理由は、地方に就職先がないからだと聞きます。
そもそも故郷を出た若者に、地元へ帰ろうという発想がない。仕事がないことがUターンの阻害要因になっていることは否定しません。でも働き先が少ない沖縄県はUターンする若者の割合が69・0%と、全国平均(42・4%)を上回り全国トップです。
経済指標が高いとは言えない北海道や宮崎県もUターン率は高い。そこで私たちがたどり着いた答えが「寛容性」です。

――どういうことでしょうか?
まず私の経験も踏まえて「若者の価値観に対して不寛容な気質の地域からは若者は去り、そして戻ってこない」との仮説を立てました。そのうえで、女性の生き方や家族のあり方への寛容性や個人主義を認める度合いなど8分野64項目で47都道府県を点数化してみました。その結果と、東京近郊(東京・埼玉・千葉・神奈川)に住む地方出身の18~39歳の男女のUターン意向の関連性を調べました。
寛容性を横軸に、Uターン意向を縦軸にした場合、沖縄のほか、大阪、兵庫、福岡など大都市を抱えた府県が右上に、山形、秋田、鳥取など人口減少に悩む県が左下に集中している。縦軸と横軸の関連を示す「相関係数」は0・447で、「地域の寛容性はUターン意向と十分な相関関係にある」といえます。
同じ手法で分析したところ、他県から移住してきた人の離脱意向を下げる効果も確認できました。つまり、地域社会の寛容性は住民をその地域にとどめ、よそへ転出した若者を呼び戻す力を持つ。「寛容性」は地域創生戦略を考えるうえで重要な指標として認識されるべきだという結論に至りました。

――寛容性がある地域とは、どんな地域ですか。
寛容性というのは、言い換えれば他の可能性を認めるということ。「こうでなければいけない」と決めつけない。例えば、女性はこうじゃなきゃいけないとか、若者はこうなんだって決めるから社会が不寛容になってくる・・・

政治を動かす大衆、希望から不安へ

2026年1月15日   岡本全勝

2025年11月23日の読売新聞[あすへの考]、フランシス・ヴォルフ氏の「ナショナリズム過熱の脅威」から。気になったところを紹介します。

・・・私見では、西洋で近年、政治を動かしているのは大衆の抱く「不安」です。衰退の不安、アイデンティティー(自己同一性・帰属意識)喪失の不安、グローバル化の不安、他者に対する不安――。
19世紀半ばから21世紀初頭まで西洋の大衆が抱いていた感情は「希望」でした。「明日は今日より素晴らしい」というのはマルクス主義の歴史観でもある。子は親よりも良い暮らしが望めた。ところが2000年代後半以降、希望は不安に取って代わられた。

欧米でナショナリズムが大衆の不安を糧に勢いを増している。16年の英国の国民投票を通じた欧州連合(EU)離脱決定と米国第一主義のドナルド・トランプ氏の米大統領初当選はその表れです。大戦後、ナショナリズムの超克を期して欧州統合を主導してきた独仏両国でも「反欧州」を叫ぶ右翼政党が伸長している。大衆はナショナリズムという空間に「避難先」を見いだしているかのようです。
欧米で左翼の取り組む「アイデンティティー政治」も問題です。左翼は伝統的に人権や基本的自由に普遍性を認め、植民地主義に対抗し、男性支配を批判し、女性解放を擁護してきた。しかし近年は大衆の不安を前にして、人間は個々の人種・性別・性的指向・信仰で定義されるべきだと説いている。人と人を結びつける普遍性ではなく、人と人を隔てる個体性を優先している。これが私の分析です。
右翼はナショナリズムに拘泥し、左翼はアイデンティティーに固執する。二つの現象は、実は一つのことを意味しています。「人間は皆、同じ価値を持ち、万人は平等だ」という普遍性の否定です。

世界で民主主義が退潮しています。振り返れば、民主主義の高揚期は1970年代半ばの南欧の民政移管、80年代半ばの南米の軍事独裁の終焉、89年の東西冷戦構造崩壊に伴う東欧の民主化、91年のソ連解体などで刻まれた、20年に満たない期間でした。
20世紀の民主主義の危機は主に軍事クーデターでした。21世紀の危機の特徴は「非民主的な指導者が民主的に選出され、民主主義を攻撃する」ことです。ブラジルのボルソナロ前大統領、ハンガリーのオルバン首相が該当しますが、代表例はトランプ米大統領です。自分は国民に選ばれた以上、言論・出版の自由や司法の独立を含む基本的自由に介入する正当性があると確信しているかのようです。
選挙は民主主義の重要な柱ですが、より重要なのは基本的自由の擁護です。米国で基本的自由が脅かされています。
世間に満ちているのはSNSなどで拡散された感情です。冷静で論理的・科学的な理性は顧みられない。民主主義をもたらした啓蒙主義が危ういのです・・・

内包と外延、行政と行政学について

2026年1月14日   岡本全勝

連載「公共を創る」第244回で、これからの地方自治体の在り方を考える際には、役所そのものを対象としているだけでは不十分で、地域の状態とその中での役所の役割を対象としなければならないと主張しました。その違いを「内包と外延」と表現しました。この言葉は数学や哲学で使われるですが、私は「内容を深掘りすること」と「周囲を見渡して置かれた立場を考えること」として使っています。これについては、「内包と外延、ものの分析」「その2」として書いたことがあります。今回は、行政を見る際に使ったのです。

役所の仕事を効率化することは、内容を深掘りすることです。それはそれで重要ですが、効率化の末に住民の期待に応えていないのなら、それは目的をはき違えています。置かれた立場、役所の役割を考慮しなければなりません。
公務員も学者も、その点を十分認識していなかったのではないでしょうか。行政学で行政機構を詳しく分析することは必要ですが、役所に何が求められているのか、外部の要素と主体(政治、社会、住民、民間組織など)との関係や、対応しなければならない課題を抜きに行政機構を分析しているだけでは、住民の期待に応えられません。教科書では、個別分野の政策を扱うものもありますが、このような視点ではまだ十分とは思えないのです。それは、政治学にも言えることです。

なぜ、今になってそれが問題になるのかは、第243回で述べました。地域社会が大きく変化し、役所に求められることが変わったからです。
日本が発展していた時期には、役所は増大する人口と生活水準の向上にあわせて、行政サービスを提供し、その質量の拡大をしていれば、住民の期待に応えることができました。ところが高齢化と人口減少が進むと、雇用の場がなくなり、各種のサービスが提供されなくなって、暮らしにくい地域が出てきたのです。そこでは、市町村役場が良い行政サービスを提供しているつもりでも、人びとは便利に暮らしていくことができません。ここに、外延を考える必要性が出てくるのです。

「外延を考える」といっても、外部の環境や外部主体との関係を分析するだけではありません。行政や政治が、何と「戦う」のかです。行政も政治も、社会の問題を解決し、住みやすい国や地域を作ることが役割です。その視点がない学問や分析は物足りないのです。「実用の学と説明の学」「文系の発想、理系の発想

大学で行政学を学んで以来、実務の場で行政学を考えてきました。若いときは、従事した地方交付税と地方財政を通じて、日本の行政を分析していました。本も書きました。しかしある段階で、これ以上深掘りしても、効果・意義は少ないのではないかと悩んでいました。その回答が、これです。

ワーク・ライフ・バランスの移行期

2026年1月14日   岡本全勝

2025年11月9日の朝日新聞、「「全員が猛烈に働く」文化、脱する道は ワーク・ライフ・バランスの現在地 濱口桂一郎氏に聞く」から。

―高市氏の発言をきっかけに「ワーク・ライフ・バランス」に注目が集まりました。
「ワーク・ライフ・バランス」って、実は変な言葉ですよね。この言葉は「ワーク」と「ライフ」が対立を起こしているというイメージを与えます。
でも家事や育児が「アンペイドワーク(無償労働)」と言われるように、「ライフ」は「ワーク」でもあります。同時に、「ワーク」とされるものは「職業生活」という「ライフ」でもある。

―仕事を制限すれば、やはりペナルティーがあります。
ワークの世界は、ライフの領域の責任が希薄な人たちを前提にできています。だから育児で仕事を制限する働き方が、「マミートラック」という揶揄するような言葉で表現される。でも私は、「マミートラック」の価値が見直されてもいいと考えています。

―どういうことですか。
日本企業は全員が「頑張って働く」ことが当たり前とされていますが、世界的に見れば異例です。諸外国では、少数のエリートは厳しい要求に応える、大多数のノンエリートは与えられた水準の仕事をクリアするだけというのが一般的です。
新幹線で「グリーン車に乗るのが当たり前」なのが日本企業です。それ以外はデッキで立たされる非正規雇用。でも本当は、多くの人は一応座れる自由席でいいはずですよね。この自由席が「マミートラック」とされる働き方です。現状はグリーン車が「ノーマルトラック」になっています。

―なぜそうなったのでしょうか。
戦後の平等主義の中で、エリートとノンエリートの格差がなくなったからです。全ての社員が猛烈に働く文化を作り、正社員であれば平等に扱われる。一概に悪いとは言えません。私は「ガンバリズムの平等主義」と呼んでいます。
でもこれは「がんばれる人の平等」です。がんばれるかどうかは個人の問題ではなく、夜中まで働いている時に子どもの面倒を見ている「銃後の守り」があるからがんばれる。この前提を無視して、そこに女性を投げ込んで、さあ活躍しなさいと競争させられたらしんどいですよね。

―人事考課が「ガンバリズムの平等主義」を補強していませんか?
1990年ごろから「欧米はもっと厳しくやっている」という大きな誤解とセットで、ヒラ社員にも「目標に向かってがんばれ」という評価制度が広がりました。現実は逆で、諸外国ではヒラ社員の評価なんてないのが当たり前です。

―あまり希望が見いだせないですね。
社会全体で見ると、今は移行期なのだと思います。男女ともに「転勤がある仕事は絶対にいやだ」というような考え方が広がっている若い世代と、中高年層との感覚の違いが表面化しています。世代交代によって変化は生まれるでしょう。
もう一つ必要なのは、「ガンバリズム」的な働き方に「ついていけない」「嫌だ」という人たちを振り落とさない形で、「がんばる人」をどう選ぶか考えることです。しかし、「社会は平等になった」と感じている人たちにとっては不愉快な話でもあり、納得できるかどうか。難しいかもしれませんね。