3月4日の朝日新聞オピニオン欄「内申書と「態度」の評価」、柳沢幸雄・北鎌倉女子学園学園長の発言から。
・・・米国の学校にも日本の調査書(内申書)のように、志望校に出す成績表と推薦状の仕組みがあります。ただ、日本と違うのは、成績表は学校の署名、推薦状は個人の署名で書かれている点です。
米国の推薦状の場合には、生徒が自分を評価するのに適していると思う人に推薦状を依頼します。推薦状が信頼されるか否かは、何より推薦者が教育のプロとして認められているかにかかっています。書く側が、個人として中身に責任を負っているのです。
日本の調査書は、多くの場合は本人に公開されず、組織の匿名性の中に逃げ込んでいる。「受験戦争が過熱するなかで、生徒が日頃の努力で報われるように」「素質をよく知る人が評価して次の学校に伝える」という理念や、うたい文句はきれいですが、調査書の実態がそうなっていないのが問題です。評価する側が、筆先だけでいろいろ書けてしまう現状では、信頼性が乏しいのです。
態度を評価する時、これで人物の行動を評価できるというような標準的なパターンはありません。なぜなら、生徒は千差万別だから。特に思春期の成長は長い目で、流れとしてみることが大事です。それをあえて評価するというのなら、書く側がプロとして、個人の責任を明確にすることが非常に重要になります。
そもそも態度を評価して何をしたいのか。型にはめるような教育で生まれるのは「空気が読める」若者です。この場では手を挙げた方がいい。目をらんらんと輝かせて、聞いているような顔をした方がいい。その結果、滅私奉公の人間ができあがります・・・