大型連休終わり

春の大型連休が終わりました。東京は、最後の6日はあいにくの雨でした。
皆さんは、有意義に過ごされたでしょうか。休みですから、ゆっくりと過ごすことで十分なのですが、何かしたいと思いますよね。知人には、4月25日から今日まで海外に滞在したという、「余裕の方」もおられます。肝冷斎は、野球観戦に精を出していたようです。これはこれで、すごいことです。

私の一番の仕事は、孫の相手。もっとも、向こうの都合により、毎日は遊んでもらえませんでした。
特筆すべきは、椿の剪定。気になっていたのです。1年でこれだけ伸びるのかと思うくらい、枝と葉が茂っています。今回も大胆に切ったので、すっきりしました。来年は、花が咲かないでしょうね。20年前に家を建てたとき、植えたものです。毎年剪定をしているのに、どんどん大きくなりました。自由に伸ばしてやりたいのですが、場所が狭く、そうはいきません。

キョーコさんのお供で美術館も行きました。菊池寛実記念智美術館の「菊池コレクション 現代陶芸のすすめ」。何度か見ていますが、これが焼き物かと思うような質感と意匠の作品が並んでいます。附属のレストランで休憩できて、うれしいです。庭もきれいです。近くの泉屋博古館東京で木島櫻谷展も。これもよかったです。
連休中も働いておられる交通機関、飲食店、美術館の人たちに感謝です。

ホームページに載せる新聞の紹介も貯金がなくなったので、早起きして、いくつか書きました。かなり貯金できました。原稿執筆は進まず。
連休前には、「あれもしたい、これもしなければ」と思っていたのですが。現実を無視した、たくさんの願望は実現しません。そんなものですね。毎年、同じことを言っています。それを良しとしましょう。柏餅もちまきも、おいしかったです。ビールも日本酒も。

ネット時代に教養は成り立つか

4月5日の朝日新聞オピニオン欄「「教養」はどこへ」、大澤聡さんの「知の対話へ、いまこそ読書」から。

・・・本を読むことで教養を形成するという価値観は、近代だからこそ成り立っていたのかもしれません。
インターネットによってあらゆるものが可視化された現代では、世界は無限に広がっていて、全てを把握するなんて無理だと事前にわかってしまっています。
しかし手に入る情報が限られていた時代には、必読リストを読破すれば世界の全てがわかるはずと思い込めました。冊数が限られ、頑張ればゴールまで行けそうな気がするからこそ挑む気になれたのでしょうね。
本には目次があります。1章、2章と番号を振って情報に序列を付け、スタートからゴールまで一直線に構築された体系性があります。前へ前へ、より高く、と駆り立てるその構造は、人格を高めたい、賢くなりたいという「教養主義」の上昇欲に合致していました。

一方、目次のないネットの世界はすべてがバラバラで、序列も体系もあいまいです。情報が無限にあってゴールが見えないため目指そうともしなくなります。
そもそも、誰もが共有すべき知識や価値観があるという考え方は、権威を崩してみんな対等だとみなす20世紀後半からのポストモダンの時代に、力を失いました。多様性が重視される時代を背景に「この本は読んで当たり前」という同調圧力は働きにくくなり、教養は雑学や趣味のようなものに変わってきています。

気になるのは、多様化の中でむしろ権威主義化が進んでいることです。専門の島宇宙それぞれに小さな王様がいて、よその島から口を出すなという雰囲気がある。これでは全体の見取り図は描けません。教養主義が内包する「他者を知りたい」という知的欲求は手放すべきではないでしょう。
いま必要なのは島と島をつなぐ対話的教養です。自分の島の知を元手に、他の島の知への推測を働かせ、共通点を探る。そんな「比喩」や「要約」の力を磨くことが大切になります・・・

叙勲2

叙勲」の続きです。そこに書きましたが、福島中央テレビがニュースで私の叙勲を伝えてくれたほか、福島民報と福島民友の2紙も顔写真入りで大きく扱ってくれました(4月29日)。お褒めの言葉も、ありがたいことです。

「東日本大震災直後から9年半にわたり国の復興行政の中枢に身を置き、陰日なたで本件復興を支えた・・・
震災の年の夏、国と地方の意見交換の際のやりとりが復興の原点となった。『支援ではなく、責任を果たす』。福島側からの指摘で国は原発事故の加害者で、罪を償う立場と認識させられた。水面下では、内堀雅雄副知事(当時)と交渉を重ね、後に法定協議会となる国と県との協議の場の設営にこぎ着けた。
『国は責任を放棄できない仕組みになっている。地元の声を聞きながら一歩ずつ復興を前に進めてほしい』。退任した今も福島への思いは色あせない。」(福島民報)

「官僚人生最後の10年間、本件復興に全身全霊を傾けた。2011年夏、自身に向けられたある一言が復興への決意を強固にした。各界代表らを前に『国は最後まで福島復興を支援していく』と宣言した直後、元東邦銀行頭取の故瀬谷俊雄さんから『今の言葉を取り消しなさい。支援じゃない。責任だ」とげきが飛んだ。『加害者である立場を改めて認識した』と振り返る・・・」(福島民友)

町田康さん「本の整理、破滅への一本道」

4月9日の朝日新聞文化欄に、町田康さんの「本の整理、破滅への一本道」が載っていました。私は、まだその心境に達しません。全てを紹介できないので、関心ある方は全文をお読みください。

・・・同業者に比べれば少ない方だとは思うが、職掌柄、家に本が仰山ある。
そしてその中には常な必要な本、たまに必要な本、まったく必要でない本がある。そしてそれらが分類整理されぬまま混在している。
それはあかん事や、と思う。なぜなら必要な本をすぐ取り出せないし、不必要な本は空間を圧迫して、住人(俺の事)のメンタルを削るからである。
なので本を分類整理しよう。不要な本は処分し、必要な本を、恰(あたか)も掌(たなごころ)を指すように容易に取り出せるようにしよう、とこう考えたのが、事の始まり、それ自体は穏当な考えであったと今も思うが、それから一瀉千里、気がつけば破滅への一本道を歩んでいる。
と言うと、「本の分類整理の何が破滅なのか」と疑問に思う方も多かろう。順に申しあげる。

・・・つまりどういう事かと言うと、本棚もそうなのだけれども、家中のありとあらゆるところに、様々の雑物が分類整理されぬままぎっしりつまって整理をしようにも手を付けられない状態に成り果てているという事である。
これでは出世は覚束ない。いや、出世とかそういう厚かましい問題ではなくして、物に圧迫され、精神があかん感じになり、その結果、仕事も投げやりになって経済的に追い詰められ、人間関係も破綻、荒れ果てた家で一人、猫にすら疎んぜられて、すべてを後悔しつつ滅びていく。
そんな人生、己(おら)やんだ。
心の底からそう思った私がやるべきことはただ一つ、そう、取り敢えず、明確な不要品をゴミとして捨て、家内で物が回転する余地を確保する事であった。
そこで私は、次のゴミの日に、もう買ったばかりで結局一度も着していない悪趣味で安っぽい衣服を廃棄した。
これはしかしなかなかに困難な仕事であった。なんとなればそれを捨てるということは、そのそれを買った自分の過去の過ちを認め、それに費やした費用を心の家計簿に損失として計上することに他ならないからである。

・・・しかしそうこうするうち家の中に堆積している物品の九割はそうした失敗物であることが判明するに至り、自分がアホではない、という気持ちが滅亡して、半笑いで物を捨てられるようになった。
それからはもう勢いが付いてしまい、それどころか物を捨てて空間が出来る事に異様な快楽を得るようになり、様々の、今現在、使用している物にさえ、難癖をつけて捨てるようになり、肝心の本も今では人から贈られたものを除いて殆ど処分、スペースだらけ、というか、ただのスペースと化した家の中を捨てる物を探してケタケタ笑いながら歩き回っている・・・

ビッグマックに見る労働生産性

このページでもしばしば言及する「ビッグマック指数」。
2025年1月時点では、日本のビッグマック価格は480円。アメリカのビッグマック価格は5.79ドルで、円にすると894円です(2025年1月時点の1ドル=154.35円で換算)。ユーロ圏では919円です。

日本の経済力の弱さを指摘して、「生産性を上げないといけない」と主張されます。でも、マクドナルドの店内で働いている店員に、これ以上生産性を上げろとは言えないでしょう。彼ら彼女らは、作業手順書に従って、諸外国の店員と同じように仕事をしているでしょう。
原材料費の小麦粉、肉、タマネギ、トマトの価格が、日本の方が安いとは思えません。小麦も肉も輸入しているので、原価もほぼ同じ、場合によっては日本の方が高いと推測されます。

同じような原材料を使って、同じように働いて、日本は安い。おかしいですよね。
円ドル相場に、大きな原因があるようです。1ドル100円になれば、アメリカの5.79ドルは579円です。日本の480円に、ぐっと近づきます。
この点からは、円高になることを期待しましょう。