佐伯啓思先生「日本の方向を決めるのは」1

12月16日の朝日新聞オピニオン欄に、佐伯啓思先生の「日本の方向を決めるのは」が載っていました。内容の重い記事なので、原文を読んでいただくとして、私が気になった点を紹介します。

・・・山本七平(1921~91)といえば、イザヤ・ベンダサン名義で発表された「日本人とユダヤ人」や「『空気』の研究」などで知られた評論家である。戦時中の過酷な軍隊経験をもつ山本にとって、あの無謀な戦争に日本を駆り立てたものは何だったのか。その問いが評論活動の原点であった。
もっとも、戦争体験を自らの思想の基軸に据えたといえば、丸山真男らのいわゆる進歩派知識人の名前が思いうかぶ。彼らは、日本の戦争原因を、天皇制国家という日本社会の後進性に求め、それゆえ、欧米を手本とした民主的な市民社会の建設に戦後日本の希望を託した。これに対して、山本は、天皇主権を排して、戦後の民主的な社会になっても問題は何も解決しない、という。
この両者の違いをもたらしたものは何か。実は、山本にとって真の問題は、ただ戦争体験というだけではなく、戦前と戦後で果たして何かが変わったのか、という点にあった。端的にいえば、戦前には「天皇陛下万歳、鬼畜米英」を叫んでいた日本人が、1945年8月15日を境に「マッカーサー万歳、民主主義万歳」へと豹変したのはなぜか、ということである。

日本の庶民大衆は、戦前にあって、実は「天皇陛下万歳」も「鬼畜米英」も本心から信じていたわけではない。ただ、「天皇陛下」が絶対的存在としてまつり上げられ、それを批判することができなくなってしまった。
とすれば、戦後はどうか。今度は「民主主義」が絶対化された。そして戦後民主主義を批判することができなくなった。占領中には「マッカーサー」が絶対化された。
マッカーサーや戦後民主主義や個人の自由などをまとめれば「アメリカ」ということになろう。戦前は「天皇」があらゆる価値の源泉であったのに対して、戦後の価値基準は「アメリカ」に変わったわけである。しかし、その構造は何ひとつ変わらない。まつり上げるものは変わったが、人々は慣習や常識に従って日々の生活を繰り返しているだけである。
にもかかわらず、「天皇」や「民主主義」や「アメリカ」がひとたび絶対化されてしまうと、それを批判できないような「空気」ができてしまう。そして、そこにできあがる「空気」、つまりある種の情緒的な雰囲気が人々を支配するのである。
しかも面白いことに、ほとんどの者は、「天皇とは何か」「民主主義とは何か」「アメリカとは何か」など、まともに考えたこともないにもかかわらず、あたかも自明の真理ででもあるかのように、それを担ぎ出すのである。皆で「空気」を作り出し、その「空気」に従うのである。担ぎ出すものは、時代によって違い、状況によって変わる。しかし、何かを担ぎ出すことで社会はまとまる・・・
この項続く